【読書録】シャイフ・ハーレド・ベントゥネス『スーフィズム イスラムの心』4くらい

 この文句の口誦は行為にその垂直性を与え、地上界と天上界の繋ぎとなるものであり、それは上方に伸びることで水平的にも長くなる、この口誦の最初の文字であるバーに似ている。

(シャイフ・ハーレド・ベントゥネス『スーフィズム イスラムの心』、171)

 バーというのは、アラビア語で二文字目に当たり、最初のアリフ「ا」は縦線で、バー「ب」が横線であり、外からの簡単な言葉で説明すれば、男と女、水平と垂直のような、二元論的な象徴であるという、中島みゆきの「糸」である、まさに、本当に男女がそれぞれの役割をもって存在して、敷布を構成するといったような含意があるらしい。
 引用箇所は、神の御名において、という、仏教でいう何妙法蓮華経のような最初の文句の中に、そういうイメージを惹起する力がある、という文脈なのだが、この垂直性と水平性の両立に神性を見るということが、キリスト教の一番の象徴である、十字架と、構成要素自体は同じであるというのが面白い。
 垂直性と水平性というのは、キリスト教とその象徴的解釈の複合によって、過剰に専売特許化されていたのではないだろうか。含意する感情とか、風景は違うのかもしれない。でも、純粋に象徴を絞った時に残るものは、同じなのだ。イスラム教が、もともとはキリスト教、新約と旧約も自分の歴史の中に組み込んでいる、ということも関係あるかもしれない。それはやはり、キリスト教の側からすると、納得いかないことの一つでもあるだろう。
 こうして、互いの宗教性に違いが現れて、名状しがたい憎悪が広がり、中東諸国と欧米諸国の戦闘というのは起きたのだろう。そんな単純なことではないのかもしれないが、もし原動力というものがあるとしたら、それはやはり、子供でも分かるような、単純な次元で思考されるのではないかと思う。
 僕は、全くそんな意図はなかったけれども、今の世界情勢に、自分の中でだけだけれども、アンサーを考えるため、この本を読み続け、井筒俊彦の『ロシア的人間』も読み続けようと思う。

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