形象化プロセッサによる自己形象化
前提
ここでは形象化プロセスの説明で使用した「鋳型と鋳物」の比喩を、すべてオブジェクト指向プログラミングにおける「クラスとインスタンス」に置き換えている。後者の言葉に馴染みがない場合は「鋳型と鋳物」に適宜読み替えてほしい。
受動的な自己イメージクラス構築
形象化プロセッサは自分自身さえ形象化する。
しかし前回の記事で述べたように形象化プロセッサは形象化プロセッサ自身を直接認識することができない。
そこで形象化プロセッサは自身に関する情報を間接的に知覚・認識し、自己イメージを構築する。例えば、自分の顔は自分で直接見ることができない。それゆえ写真や鏡、映像などで「自分はこのような顔・姿・体型なのだ」と知ることが出来る。
これは物理的な対象に限ったことではない。
例えば「これが好きだ/嫌いだ」「得意/不得意」「出来る/出来ない」等も同様である。何かしたり食べたりして、「これは出来る」「あれは不得意」「それは嫌い」といった情報から徐々に自己イメージを構築していく。
仮に趣味嗜好の変化があったとしよう。
この場合、「これは嫌いだったが、いま食べてみたらおいしい」または「これは好きだったが、いまやってみると退屈だ」という情報が得られる。
この後は自己イメージの変化か維持に対応が分かれる。
変化する場合、「これは食べられるようになった」とか「これはもう面白くない」という情報で自己イメージを更新する。
維持する場合、「いや、これはたまたま美味しかっただけで嫌いなまま」とか「たまたま楽しめなかっただけ。またやれば楽しいはず」という判断で自己イメージを更新しない。
これらの対処は一概にどちらが良いとは言い切れない。
要は形象化プロセッサが自分のことをある程度正確に把握するための自己イメージクラスであるので、どちらの対処も「自己そのもの(ここでは形象化プロセッサのこと)」と「自己イメージ」が乖離しすぎないようにするための行動であり、その逆ではない。過度に変化すれば自己の連続性が保持されないし、過度に維持を続ければ自己と自己イメージの乖離が激しくなる。
(しかしながら、これらの自己イメージ構築はかなり主観的なものであり、客観性を欠く。他者からの「君はこれが十分出来ている」「ここが全然ダメ」という指摘を受け入れるかどうかの判断すら形象化プロセッサに依存する。実際に自己と自己イメージが客観的に一致している保証はない。)
能動的な自己イメージクラス構築
形象化プロセッサはある方向を目指して自分自身を変化させていく積極的・能動的な自己形象化も行っている。
外部から取り入れた情報から「こうありたい」と思うような理想としてのロールモデルを作成する。これはその時点での自己イメージクラスと特に関連はなく、ありきたりな理想像のクラスの一つと捉える。(某猫型ロボットの歌にもあるように、理想像はたいてい複数ある。)
・自己を指し示す対象の分類
形象化プロセッサとその自己イメージは同一でないように、自己イメージクラスと自己イメージインスタンスも異なる。
つまり一口に「自己」と言っても、「形象化プロセッサ」「自己イメージクラス」「自己イメージインスタンス」の3つがあることになる。
自己イメージインスタンスはシミュレーションの世界にしか存在しない。「こんな状況のときに自分ならどうする?」という思考実験でしか現れない想像上の自分である。実際にその状況下において想定した行動が取れる保障はない。
ロールモデルのクラスについても同様であり、そのインスタンスはシミュレーション上にしか存在しない。シミュレートした結果で改変されるのは自己イメージクラスでありロールモデルクラスではない。これも実際の状況下での行動はあくまで形象化プロセッサが実行するのでシミュレーション通りにはなりづらい。
形象化プロセッサは不変か?
上記の受動的・能動的な自己イメージクラス構築において、結局改変されうるのは自己イメージクラスのみであり形象化プロセッサ自体はなんら変化していないように見える。
ヤージュニャヴァルキヤは「アートマンは不滅。『~ではない』としか言えない。捉えることができない。破壊することができない。執着することができない。束縛されることがない。動揺することもない。害されることもない。」という趣旨のことを述べている。
では、アートマンは不変なのか?成長や衰退はしないのか?
これらの疑問には答えられない。なぜならアートマンは認識することができないからである。仮に形象化プロセッサをアートマンとするならば、自己イメージクラスによって間接的に自分の情報を知ることができても、直接形象化プロセッサを観測していないので変化は分からない。
つまり、自分が変化しているという認識は自己イメージクラスの変化をあたかも形象化プロセッサが変化しているように誤って理解しているのかもしれない。
しかし、形象化プロセッサを極度にブラックボックス化して考えるのは早計ではないか。少なくとも間接的には自己イメージクラスによって形象化プロセッサの一端は認識できており、自己イメージクラスが全て思い込みの産物とは到底考えられない。
程度の大小はあるにせよ自己イメージクラスは形象化プロセッサの状況を反映しており、自己イメージクラスの変化は形象化プロセッサの変化を示している、つまり形象化プロセッサは変化する、というのが筆者の見解である。
私見
「自己そのもの(形象化プロセッサ)」に対して、統一的な唯一の「自己イメージ」がある方が良い、と筆者は考える。つまり、一つの自己に対して矛盾した複数の自己イメージを持つということは統合失調である。「自己そのもの」に対する自己イメージの分散は自己に対する認識を誤る。
仮に複数の自己イメージが客観的にも正しい自己認識だとすると、「複数の自己(形象化プロセッサ)にそれぞれ対応する(一つの)自己イメージがある」という状況を意味する。
これは統合失調症に対する異なった解釈が2通り出来ることになる。
①一つの肉体に一つの形象化プロセッサ、複数の自己イメージが存在する。
②一つの肉体に複数の形象化プロセッサ、そして一つの形象化プロセッサごとに対応する自己イメージが一つずつあり、結果として複数の自己イメージが存在する。
①と②がどう異なるかを筆者なりに考えてみる。
①の場合、形象化プロセッサは一つであるため、一度に一つの自己イメージを形象化プロセッサが占有する。自己イメージは切り替わるが、形象化プロセッサが複数の自己イメージを同時に参照することはない。
②の場合、形象化プロセッサが複数あり、それぞれに自己イメージがあるため、各々の形象化プロセッサが独立して作動する。つまり自己イメージが”切り替わる”のではなく、同時に並列して形象化プロセッサ群が作動している。外部から観察するとあたかも人格が”切り替わっている”ように見える。
特に心理学の知見もないので単なる思考実験だが、実際に明確な人格の切り替わりなどありうるのだろうか。