Into The Wonder Fairy Tale. ー1ー
diary. 2*19/03/04
まだ肌寒い夜半、郊外にあるこの屋敷の冷え込みはキツい。アリスの毛布を一枚増やしておいて正解だったな・・とはいえ、もうここともあと1か月もたたないうちにお別れになるのだが。
およそひと月ぶりだ。いや、それは私にとって、だが。幼い女の子の体になってしまったアリスは、初めて訪れることになるであろうあの街に、あの街に耐えられるのだろうか。才覚は十二分であるが、心が持つかどうか・・・、たまに仕事を与えられて戻ってはいたが、見事にあの狂人共も女王も健在だ。その割に、治安が乱れている様子がどことなく目立っている気がしているけれど。
犯罪都市、通称アンダーランド。この子は4月には、あの都市を牛耳るマフィアのボスになる。財務処理、経営学、帝王学、・・本当ならば23歳の青年の姿で、若き首領となるはずだったろうに。あぁアリス・・私にできること、それは・・・・・。
***
「おはようございます、アリス。・・・アリス、ほら起きてください、ジンジャーブレンドの紅茶、冷めてしまいますよ」
まどろみと肌寒さ、そして穏やかな声。嫌よ、まだ眠っていたいわ。そもそも起こしに来るのが早すぎるのよ―――。
「おや、我が儘なお嬢様ですね。では、紅茶にマーマレードを添えましょう。本当はモーニングティーに甘いものはよろしくないのですが、特別ですよ」
マーマレード・・・ジンジャーの香りによく合う甘さ・・ああでも、私もう少し眠りたいの。
「困りましたね・・では、今朝のドレスのパニエは私が選ばせていただきますね。ああ、今日はソックスガーターも必要ですが・・仕方がありません、着替えも今日は私が――」
「起きる!起きるわっ!だからその不埒な視線をやめてっ!」
そっとシーツを捲られて、私は反射で枕の下に腕を突っ込んだ。どうして、どうして朝からこんなセクハラを、しかも執事から受けなければならないのよ。
しかし、その腕を引き抜く前に、そっと押えられる。今日も、モノクルの奥の瞳は気味が悪いほどの笑顔だ。
「アリス・・・普段は私が控えているのですから、枕元にレディーがこのようなものを忍ばせておくものではありませんよ。それとも、私をお疑いで?」
手首を親指と小指で押さえられ、手のひらを中指でくすぐられるようにして、ずるり、と右腕を引き抜かれる。いけませんねェ、こんなもの、と耳元で囁かれ、背筋がぞわっとした。
手に握っていたベレッタをぱっと取り上げられ、代わりにそっと体を起こされる。
「暴発や誤発射でも起こったらどうするんですか。全く、それで貴女が怪我をしようものなら、私、悲しみの余り何をしでかすか分かりませんよ」
「何よ・・だとしたってまだおじいさまは生きてるんだもの、後継ぎなんて私でなくたっていいんだから、別に貴方の気が狂う程ではないでしょうに」
ティーカップを渡される。このシナモンの香りは・・まぁこの男のことだ、朝からキッチンでスティックを粉にしたのだろう。そっと口にすると、ふわりとオレンジが香った。底に沈んでいるのは・・刻んだジンジャーを砂糖で煮込んだものだろう。ため息が出るほど芸が細かいというか、正直重い。
だって、ねぇ。ティーセットを片付けつつぱらぱらとベレッタから弾を抜くこの男がこう答えるだなんてこと、私にだってわかりきっているんだもの。
「何を・・・貴女の存在こそ私の生きがいなのです。その美しい手足や可愛らしい顔を二度と見ることができないのであれば、私は喜んで喉を突いて貴方の後を追いますよ、アリス」
「・・・白兎、貴方、やっぱり重いわ」
もうこんなやり取りも、8年目だ。観念した私は、そっと執事の白兎にカップを押し返した。
***
「・・・で、今日の予定は?」
ベッドの縁に腰掛け、私はそっと足を突き出す。何が楽しいのか知らないが、足もとに跪いた白兎は私の足を取って絹の靴下を滑らすように履かせていく。
「本日は朝食後、経理部門幹部とのミーティングが御座います。その後、先日発見された“鼠”の駆除結果の報告が外部交渉部からありますので」
「粛正部門・・ではなかったわね、そう、外部交渉部門・・」
「4番街の“掃除屋”に外注しましたので。この組織の粛正部門は殺害に特化しているせいか、些か拷問に関しては弱い節が認められますから・・私が行えばあの程度の“鼠”など1分と持たないでしょうが、・・・そう言った事はしない約束ですものね、アリス」
ソックスガーターを留めた白兎が、意味ありげにこちらを見上げてくる。・・表面上の穏やかな笑み、やっぱり胡散臭い。
「・・・分かったから、いい加減足を離してくれないかしら。ふくらはぎ、くすぐったいのだけれど」
「おっと、失礼。決してやましい目で見ていた訳では御座いませんが・・ふむ、やはりその体でも少しは成長なされているのですね。太腿の径が少し大きくなったと」
とりあえず、私は白兎の顎を思いっきり蹴り上げた。反動で壁に頭をぶつけたようだったが、もう知らない。
私は、アリス。・・というのも、本名ではない。このアンダーランドと通称される犯罪都市に蔓延る多くの非合法組織の中でも二枚看板とされる組織の片割れ「アリス・ファミリー」の首領であり、その地位を継ぐものが代々「アリス」と名乗るのだ。
見た目と所作は10歳の少女。しかし、中身は23歳の成人男子。数年前、祖父がまだ現役の「アリス」であった頃、アンダーランドから遠く離れた屋敷で教育を受けていた私は突如、中身はそのまま身体だけが縮んだ上に性別までも変わってしまった。原因の究明は難航し、結局何かの薬品によるもの、という事しか分からず、むしろ祖父などは「この年でこんなに可愛い孫娘ができるなんて」と大喜びでドレスを買ってくる始末で、別に健康被害がある訳でも何でも無いのだから別にいいじゃないか、と結論付けられてしまっている。
10年前にこのアリス・ファミリーに拾われ、以来私の教育係兼専属執事としてずっと供に過ごしてきた「白兎」と呼ばれるこの男も、そんな幼女姿の私にニヤニヤする一人だ。・・というか祖父は単に孫娘を可愛がっているだけだが、白兎のそれはもう、完全にロリコン的発想である。本人は「ふしだらな目で見るなど言語道断、私はその姿を賛美しているだけですから」などと宣っているが、私からしたらどちらも似たようなものである。・・私だって一人で靴下くらい履けるが、こうした役目を決してこの男が譲ろうとしないのも、彼の言う「賛美」の一環なのだろう。いい加減慣れもしたが、呆れてものが言えないのは変わらないし、度が過ぎれば制裁を加えることも決して忘れない。
こうして、年なんだからそろそろ大人しくしろと幹部たちに説得されて隠居を決めた祖父の代わりに、「23歳」の私が、新しい「アリス」としてこの街に赴いたのがおよそ半年前の話だ。財務、体術、血の掟、等々。白兎には様々な事を叩きこまれた上で首領として仕事を始めたはずなのに―――現実はそううまくは行かず、起こり続けるのは日々頭を抱えるような事ばかり。私の首領就任をきっかけに教育係から組織のコンシリエーレという立場に昇進を遂げた白兎は相変わらずのロリコンぶりだが、それでも、私が知らないところで膨大な雑務や汚れ仕事を片付けてくれていることは知っていた。だからその褒美、ではないが・・彼自身が拷問や処刑を行うことは、禁じている。余計な事で彼の燕尾服を汚したくはないという、・・私の、わがままだ。
「あとは、例の自爆テロの調査の進捗報告が御座いますが・・あの件、酷く心を痛めてらっしゃいましたね。どうしましょう、私の代理出席をお認め下さるのであれば、後から報告書としてアリスに提出致しますが」
「いいえ。私が聞くわ・・・いつまでもそんな甘い事、言ってられないもの。子供が抗争に巻き込まれて死ぬことも、薬でイカレた人間が徘徊することも、この街では普通よ。自爆テロくらいで、動じていられないわ」
そう、今現在最大の問題は、このアリス・ファミリーの本拠地がある2番街で発生した自爆テロだ。単なるファミリーへの逆恨みなどではない、これは確実に、代替わり直後で不安定なこちらへの揺さぶりを掛けるために仕掛けられた罠。・・私が揺れ動けば、2番街の治安も保てなくなる。自分の力不足で、これ以上人を死なせるわけにはいかないから。
「・・・御立派です、アリス。それでは、午前の仕事の前にまずは朝食と致しましょう。毒見は済んでおります」
「ええ・・。しっかり食べて、しっかり動かねばならないものね」
差し伸べられた手を取って、ベッドから降りる。今日もまた、過酷な一日になるだろう。だがしかし、私がこの半年で見ていた物などこのアンダーランドのごく一部でしかないという事を、これから私は思い知らされることになるのだった。