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「zoom飲み」が置きざりにするもの

未確定だが、散々書かせて頂いたように新型コロナウィルスに感染して苦しんで、やっとこさ熱が下がり、世の参考にして頂ければとレポートも書いた。熱が下がってから1週間で完全に仕事も再開し、自宅のデスクで愚直に仕事をする生活も2週間となった(この2週間、わりと新しい生活スタイルを採用したところ、非常に効果が上がったのでそれはまたすぐに別途書ければ良いと思う)。

で、徐々に療養モードからも脱却し、遅ればせながらついに「アレ」をやる機会が訪れてしまった。寝込んで回復して社会復帰したら結構市民権を得てしまっていた「アレ」。すなわち「zoom飲み」だ。

療養モードでもソーシャルメディアは見ていたので、徐々に「zoom飲み」が浸透していく感じはリアルタイムに追っていた。しかし、どうにも、素直に「いいっすねー」と言えない自分がいた。人が「zoom飲みしたよ!」なんて言ってスクリーンショットや、たぶん結構、部屋のセッティングとか酒の置き方とか(銘柄とか)、丁寧に「映える」感じにして、自分の部屋とPCを一緒に映してたりするようなやつ。そういうのを公開している人はたくさんいるが、なぜか、「ウーン」と思ってしまう。乗り切れない自分がいた。

ちなみに私は普段から仕事でzoom・オンラインミーティングを行っていて、ツールの習熟度で言ったらそれなりのものだろう。

で、なぜ、自分がこの「zoom飲み」にアレルギーに近い「ウッ」という感覚を持ってしまっているのか、結論としては初めて実際にやってみて言語化できるレベルで理解できたのでここに書いているのだが、この金曜から週末にかけて行った2件の「zoom飲み」は非常に楽しかったし、生活に潤いを与えてくれたように思う。

家族 vs 家族

1件目は、金曜日の夜、同じニューヨークに住むメディアアーティストのexonemoさん一家との「zoom飲み」だ。うちの妻も含めて家族ぐるみで仲良くさせて頂いている皆さんなので、快気祝いにzoomでつないで飯でも食おうよ、となったのだ。子供たち同士も仲良しだし、気心は知れていると言っていい。うちは5人家族で人数が多いので、家にPCやタブレットを3台くらい置いて、「3カメ」で臨んだ。

しかし当然、これは対面のフィジカルな食事・飲み会とは違う。「zoom飲み」であるからこその問題がいくつか生じる。下記、問題を列挙してみる。

・すげーうるさい

子供たちは好き勝手なことをしゃべる。騒ぐ。オンラインだろうがなかろうが、常に騒がしいわけなので、結局のところ大騒ぎの中で会話をすることになる。そしてその騒ぎに、ビデオ会話システムのメインマイクが持っていかれる。zoomには、「しゃべっている人の音がクリアに聴こえる」(そして他の人の声は小さくなる)みたいな機能が恐らくあって、これがビジネス上のビデオ会議ではかなり有効に作用するのだが、子供が全員騒いでいる状態だと、もはや誰がしゃべっているのかよくわからないし、スピーカーから流れてくるのはカオスな何かだ。

・まともにしゃべれない

そんなこんなだから、コミュニケーションが大変だ。対面だと、子供がうるさくても親同士で近づいて聞こえるようにしゃべる、で済むわけだがそれができない。

・話題が1つだけになる / 複数会話のラインができない

これはなかなか重要で、多くの家族同士の場合はそうだろし、そして我が家とexonemo家の場合も、宴がたけなわになってくると、子供たちは子供たち同士で話して遊ぶし、父親同士は父親同士で仕事の話なんかをする。母親同士は母親同士で、というのももちろんだし、父親と相手の母親が話すことだってある。なんにせよ、こういう場合徐々に会話が複数になっていくのがこういうパーティーの常だが、「zoom飲み」ではそれが不可能だ。原則、話者は1人。誰かがしゃべっているときはしゃべれないししゃべらない。そういうシステムになっていない。

最初はカオスだった宴も、子供たちを子供たちの部屋から参加させるようにして、多少マイクの音量を下げることで、親同士が会話することはできるようになった。仕事の話も、罹患の話も、いろいろできて楽しかった。会話が楽しければ酒も進む。それなりに飲んだ。

最終的にはうちの次男がカメラに向かって、「開封系YouTuber」を演じる体で自分のおもちゃを見せびらかす、というのが始まってすごくかわいいというか、面白くてそれに持っていかれてしまった感があるが、ご飯もおいしかったし、良い夜だった。しかし初の「zoom飲み」、大きな問題としては上記のようなところだった。

大人数

そして翌日土曜日、二度目の「zoom飲み」は、ニューヨークにいる私だけ早朝からの参加。つまり、東京にいる、私が所属しているテクニカルディレクター(デジタル技術監督)の集まり・会社であるBASSDRUMの有志と飲む会だ。

最初は、メンバーの紫竹さんがなんか悩んでそうだったから酒でも飲もうよ、なんて言って始まった話だが、折角なのでメンバー有志に声を掛けてみた。最終的に8人が参加した

何しろ朝の7時とかで、前日も飲んでいたので、私はコーヒーにさせてもらったが、皆さんは酒を飲んでいた。

普段は聞けないような話も聞けたし、そもそも気心が知れている人々なので、非常に楽しかった。またやりたいか、と言われたらまたやっても良いと思う。私たちBASSDRUMは、同じ技術屋の集まりなので、そっち方面のちょっとコアな話もみんなで楽しめるし、勉強にもなる。

しかし、この大人数での「zoom飲み」でも、新しい問題が見えた。下記に書いてみる。

・沈黙が許されない

前述の「話題は1つ」「複数の会話が不可能」という問題は、副作用をもたらす。メインの話題が途切れると、沈黙が訪れるのだ。永遠に続く話題はない。で、この沈黙が会全体に及ぶので、ちょっと辛い。で、それをカバーしようとして頑張って次の話題を突っ込むしかない。「司会者」みたいな人が結構重要になってくる。

・しゃべる人が固定されがち

で、そうすると、その「司会者」が空気をつくることになる。この人が「○○さんはどうですか?」なんて言って、話を振っていったりすることにもなる。そしてその人をいじったりする。司会者だ。あんまりしゃべっていない人に話題を振ったり、オーガナイザーとしての手腕も問われてしまう。さもないと会から置いていかれてしまう参加者も出てくるかもしれない。しかし、この会はその「司会者」の「番組」になる。さんまが司会者の番組は「さんま御殿」であるように、●●さんが「司会者」なら、その場は「●●御殿」みたいなことになる。今回の場合、これを担当していたのは私と、同僚の鍜治屋敷(かじやしき)さんだったかと思う。

・話題のクオリティが問われる

これも「話題は1つ」「複数の会話が不可能」の副作用。つまり、全体の話題の重要度は、複数会話が発生して会話内容の重要度が分散される通常の飲み会よりも格段に高くなる。こうなると、ヘタにつまらないことは言えない。その場にいる人たちが楽しめる、完成度の高い「すべらない話」をしないといけなくなる。話題のクオリティは、その宴のクオリティに直結するのだ。これが、実は「zoom飲み」における最も大きな問題だと思われる。理由は後述する。

そして。

ここで私たちは、そもそも「飲み会」とは何なのか、に立ち戻らなくてはならない。

世の中にはいろんな「飲み会」がある。仕事が絡んだフォーマルな会食に近いものから、気心が知れた人たちと集まって呑んだくれるようなもの。合コンのようなイベント的に企画・開催されるようなものもあるだろう。

しかし概ね、「飲み会」というものは、「酒」を囲んで行われるもので、酒を会話の潤滑剤にして人間同士の関係を深める、というような催し物であると同時に、「楽しい会話」を肴にして酒を飲む、という側面もある。

人間同士の関係を深めるためには、酩酊して心身がゆるんだ状態になることは効果的だし、うまい酒を飲むためには「楽しい会話」は効果的だ。

そんな、みんなで酩酊して楽しんでいる「飲み会」では、話題のクオリティなんて大して関係がない。どうでもいいオチの無い話であってもそれをBGMにして酒を飲むことはできるし、酔っ払った誰かがわけのわからないことを言い始めても、それを見て笑い、自分も酩酊すればいい。前述の鍜治屋敷さんは、いつもの飲み会だったら酩酊して前後不覚になり、皿に顔をうずめて寝てしまう。失踪してしまうことなどもある。そしてそれすらも肴にして酩酊するのもまた飲み会だ。

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そこに沈黙があっても、みんな楽しそうにしていればそれでいい。

しかし、そんな鍜治屋敷さんでも、今回の「zoom飲み」の場合司会者的なポジションで、前後不覚にはならない。さんま御殿でさんまが酔って寝てしまっては、番組が崩壊してしまう。ここでは鍜治屋敷さんは泥酔しないし、できないのだ。

さらに、「zoom飲み」ならではの現象が連鎖的に起こる。完成度の高い「すべらない話」を展開するのは、結構、「技術」なのだ。切り出すタイミングもそうだし、この「zoom飲み」では、参加者がみんな話者の話を聞くことになるため、「プレゼンテーション技術」みたいなものが問われることになりかねない。

そうなってしまうと「zoom飲み」には不幸な格差が生まれてしまう。それは、コミュニュケーション強者、すなわち「コミュ強」と、弱者である「コミュ弱」との格差だ。元来の飲み会には、宴会部長的な人も、隅っこで黙って飲んでいる人もいるので、そういう状況がないわけではないが、この「話者が全部持っていく」システムだとその差は広がるし、普段、隅っこで黙って飲んでいる、コミュニケーションを積極的に取らないタイプの人にとっては、誰かのゲーム実況見ながら一人で飲んでるのと変わらない程度には、その集いに参加している意味が見いだせなくなる。

私なんかは、BASSDRUMという自分が所属しているコミュニティの中では普段クライアントと会話したりする立ち位置なので職能的にそこで司会者側に回れる「コミュ強」側ではあるが、恐らく、たとえばもうちょっと「クリエイター」っぽい人たちの集まりなんかに入ると一気に「コミュ弱」側に回るし、恐らくあんまり興味のない話がワントピックで展開する場所で、裏で人のブログでも見ながら一人で酒を飲んでいるような感じになりそう。

結果として、「zoom飲み」は「コミュ強」のためのもの、ということになってしまう。そして、それがたとえば技術者・開発者のような、コミュニケーションを生業にしていない人々から見ると、「コミュ強」=「チャラい人たち」みたいな図式にすらなってしまうので、人によっては、「zoom飲み」=「チャラついた人たちのチャラついた遊び」=自分らはちょっと遠慮しときます・・・、みたいなことになる。

本来、ビジネスの会議に最適されたオンライン会議システム上で行われる「zoom飲み」が置きざりにしてしまう、本来の飲み会の大事な空気というか「コク」とでも言えるような部分、そしてその副作用として参加を遠慮したくなってしまう人たち、というのは何かの分断を顕在化させてしまっているような感じがちょっとする。そしてそのへんが、冒頭で私が書いた「zoom飲み」って言われると「ウッ」となる、の正体だったのではないかと思う。

対案

対案として考えたのが、「ビデオつきテキスト飲み」だ。

参加者はzoomで接続する。顔や飲んでいる様は、相手と共有する。これは空気感とお互いの存在感を共有するためだ。鍜治屋敷さんが酩酊する様も視認することができる。

その上で、全員音声を切る。

SlackでもMessengerでもLINEでも良いのだが、コミュニケーションはすべてチャットで行う。全体に向けて話したいことがあれば全体のチャットに書けば良いし、個別に話したいことがあればDMで話してしまっても良い。話題も話者も固定されないし、参加者のコミュニケーションに自由が与えられる。うるさくてしゃべれない、みたいな問題もない。

というわけで、近いうちに「ビデオつきテキスト飲み」を試してみようかと思う。私たちには、こんな時代になっても、酒の肴になるようなどうでも良くて自由なコミュニケーションが必要なのだ。