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0209「暗渠とネズミのぼうそうぞく」

先日、子どもたちを連れて等々力渓谷に行った。多摩川からちょっと入った世田谷区の等々力に存在する、23区でおそらく唯一の渓谷だ。住宅街に突然崖が出現してズドーンと谷底が現れる、都内と侮るなかれ、結構ガチな渓谷なので楽しい。私は世田谷生まれ世田谷育ちなので、子供の頃から父に連れて行ってもらったことがある。

東京にずっといるのも久々なので、等々力渓谷も久々だ。子どもたちと渓谷を散策していてふと、こんな渓谷の源流ってどこなんだろう、と思って調べてみたら、生まれ育った実家のある地域、しかも、かなり普通に住宅が建っているようなところにおもむろに源流があることがわかった。「そういえば、あのへんに暗渠があったな」と思っていた場所が、まさかの等々力渓谷=そこを流れる谷沢川の源流だったのだ。

暗渠、つまり、東京によくある、ドブ川みたいなのをコンクリートの板で蓋をしたようなやつ、蓋で覆ってしまった川だ。東京の街を歩きながら注意深く見ていると、そこかしこに暗渠がある。そんな昔からの水の流れをたどっていくと、昔の人々の生活とかに思いを馳せることができたりして楽しい。そんなこんなで、最近改めて、暗渠面白いなと思って、周辺の暗渠について調べたりしている。暗渠専門のYouTubeチャネルなんかもあって、ネットは広大で良いなと思う。

暗渠の反対、というか、コンクリートの蓋がない、川がむき出しになっている状態のことを「開渠」と言う。世田谷の小さな川にも、わりと稀だが、蓋がされていない開渠になっている箇所がある。等々力渓谷の谷沢川の源流付近にも、馬事公苑のTSUTAYAから世田谷通りを環八方面にちょっと行くとクロネコヤマトの配送センターがあるのだが、そこの横のちょっと気づかないような隙間に細い谷沢川の開渠がある。この、住宅地に突然現れる細い川が等々力渓谷になるのかと思うとちょっと感動してしまう。その北には宇山緑地という遊水地があって、水量が増えるとそこに水が溜まったりするらしい。すっかり人工物に覆われている世田谷の住宅地とて、自然の中にあるのだな、と感じ入ってしまう。

私は、前述の通り、世田谷生まれ世田谷育ちだ。1976年生まれなので、1970年代の世田谷というのをこの目で見ていると言える。といっても70年代はさすがにあんまり覚えていないが、1980年代の世田谷となると、やや記憶の解像度が上がってくる。

当時の世田谷には、まだまだたくさん開渠が存在した。今では普通の道路になっている桜新町の谷になっている道が昔は川だったことを覚えているし、そこかしこにドブ川みたいなものはあった。

世田谷の暗渠のことを調べていて、昔開渠になっていた場所を思い出したりしているうちに、大事な記憶を思い出したので、書くことにする。

私は、いじめられがちな少年時代を過ごした。今思えば発達障害があったわけで、いろんなコミュニケーションに適応しづらい傾向はあったわけだが、当時はそんな診断も自覚もない。小学校の低学年の頃なんて、スクールカーストみたいなものは運動が得意かどうかで決まるところもある中で、私は極めて運動が不得意な子供だった(小学校の高学年になると、通っていた学校がなぜか縄跳びに力を入れ始め、縄跳びによるヒエラルキー形成が加速して最悪だった)。そして肥満気味だった。いじめられそうなポイントは多い子だったろうし、実際いじめを受けていた。

小2だったか小3だったかだと思うのだが、クラスの「お楽しみ会」というものが企画された。よくある、班に分かれて演劇だの何だの出し物をやってお菓子なんかを食う、ミニ学芸会みたいなイベントだ。今はどうか知らないが、机を教室の後方に敷き詰めて舞台にして、その上で出し物をやる。たぶん、2週間とかそのくらいかけて出し物の準備をする感じだったかと思う。

私は、Nくんという、比較的クラスの中でも力を持っていた男の子の班に入ったというか、たぶん、入れてもらった。私はそもそも忌避され気味だったので、お情けか、先生の指示とかで班に入れてもらったんだったと思う。で、Nくんの仕切りで、Nくんの家で劇の打ち合わせをやることになった。通常、こういう場合手頃な絵本や児童書などを台本にして、衣装や小道具をつくって演劇にしていく。打ち合わせや練習をしながらそういう工作をやっていくのだ。このときはNくんの家だったかと思うが、場合によっては女の子と同じ班になることがあって、そういう場合、女子の家に行くというレアなイベントが発生するのがお楽しみ会でもあった。

で、Nくんの家に行って準備をする中で、何しろお情けで班に入れてもらっている私なので、パシリみたいなことをやらされたり、まあ、そこそこ憂鬱な時間を過ごしたんだったと思う。で、最後にどういう話の展開だったか、「うちの班でやっていくなら、度胸試しをしろ」みたいな話になった。

うちの実家やNくんの家は、世田谷の真ん中らへんの弦巻という町にあり、Nくんの家は弦巻営業所という東急バスの営業所の裏手に位置していた。その営業所の裏手、細い路地を入っていった奥まったところに、ドブ川があった。開渠だ。その開渠の横には人の足が一人分入るくらいの細い足場があって、その足場の側には鉄条網が張り巡らされていた。足場の下2メートルくらい下に川が流れていた。私は、Nくんとその取り巻きに、開渠の入り口まで連れて行かれ、おそらく20m程度先にある、開渠の終点(今思えば、川はバスの営業所の下で暗渠化していて、川はその先まで続いていた)まで足場をたどって行って帰ってくるように命令された。

上の写真の一番上の濃いグレーの袋小路みたいのが昔開渠だった蛇崩川の暗渠。右側がバスの営業所。

小学2年だか3年だかの運動神経ゼロの肥満気味な子にとっては、カイジの鉄骨渡りのような、恐ろしい試練だったが、Nくん一派は開渠の入り口を塞いで私の逃げ場を断った。足場から落ちたら怪我では済まなかったと思うし、足場から落ちないためには、鉄条網にしがみつく必要があった。

今でも思い出せるくらいだから、かわいそうに、本当に怖かったのだろう。足をガクガクに震わせながら、足場を辿って、鉄条網に身体を寄せながら必死に開渠の終点まで少しずつ歩いた。Nくん一派がそれを見て笑っていた、んじゃないかと思う。たぶん、その時の私はそんなことを考えられないくらい必死だったはずだから記憶にない。

で、暗渠の終点に到達したら、確か今度はNくん一派、全員その場から立ち去って私は置き去りにされてしまった。もうその時点で私は泣いちゃっていたはずなのだが、泣きながらどうにか開渠を脱出した。鉄条網で服が破けてしまって、切り傷も負ったりして、で、そのまま泣きながら家に戻って、さすがに親に何があったかを伝えて、先生と話してもらって、Nくんの班から外してもらうことになったんだったかと思う。このへんはあやふやだが、とにかくNくんの班からはそれっきりになった。いま、うちの子がそんな目に遭って帰ってきたら、絶対に私は相手の子の家に殴り込みに行くなり、何らかのいやらしい手で社会的ダメージを与えたりいろいろするはずなので、うちの親はおとなしいものだ。

お楽しみ会の班を辞めて、お楽しみ会に出れなくなってしまった私だったが、SくんとOくんという2人の男の子がどういうわけだか2人で形成していた班が、私を受け入れてくれることになった。SくんもOくんも、クラスではメインストリームの人たちではなくて、なんていうか、クラスの隅っこで独自路線でやっていっているような子たちだったかと思う。

もうその時点でお楽しみ会まで時間がなくって、しょうがないからSくんの立案で、短いオリジナルの脚本というか、今思えばちょっとしたコントのようなものを演じてお茶を濁すことになった。他の班のような小道具も衣装もほとんどない、一発勝負の小ネタみたいなものだったかと思う。内容は全く覚えていないが、タイトルは覚えていて、「ネズミのぼうそうぞく」というタイトルだった。文字通り、ネズミが暴走する話だったんじゃないかと思う。そして覚えているのが、この「ネズミのぼうそうぞく」、お楽しみ会で3人で演じたところ、なんか滅茶苦茶に受けて、アンコールで何回もやることになって、我々3人はその日の主役になったということだ。しかも、確かSくんは私を「ネズミのぼうそうぞく」の主役に抜擢してくれていた。つまり、陰キャも良いところだった私は、その日に限っては、なぜか一番脚光を浴びたんだった気がする。

このエピソードのことはずっと忘れていたが、世田谷の暗渠散歩みたいなことをやってみて、突然ファッと思い出した。しかし、これは結構重要な体験だったかなーとも思う。よく考えたら、クラスのメインストリームの子にくっついて陰キャをやっていたタイプだった私が、「独自路線結構行けるじゃん」と思って、その後の小学校中高学年は独自路線を歩んだような気がするし(中学前半くらいまでは比較的いじめられがちであることは変わらなかったが)、オリジナルのコンテンツをつくることの良さだったり、短くてシンプルであることの尊さなんかもインストールされた気がする。

Sくんとはちょこちょこ仲良くさせてもらっていたのだが、私は給食で出る子持ちシシャモを食べることができないというか、全然受け付けなくて、シシャモを残そうとしたときにSくんに「こんなにおいしいものを食べないなんて大損害だ!」とかなり怒られて、それでなんか疎遠になったような記憶がある。よくそんなこと覚えているなと自分でも感心するが、暗渠の話からそんなことまで思い出してしまった。しかし、案外、SくんとOくんがいなかったら今の私は今の私のような人ではなかったのかもしれない。ことに、わざわざ陰キャである私を主役に抜擢したSくんには感謝すべきなのだろう。

と思って、Sくんの名前を検索してみたら、なんかすごい簡単に出てきた。Sくん起業してインタビュー記事になっていて、Facebookの共通の友達も結構いた。わりと近しいところで仕事をしている感じもある。

というわけでMessengerで連絡して、「こんな記事を公開しようと思うのだけどリンク貼って良いですか?」と聞いてみたら良いとのことだったのでSくんの正体を晒してしまう。ネズミのぼうそうぞくのお礼を35年くらい越しにできることにもなった。とかく悪く言われがちな最近のFacebookだが、良いこともある。

ちなみにSくん、ネズミのぼうそうぞくについては覚えていなくて、うちに遊びに来て父が持っていたビートルズのレコードを聴いた記憶があるらしい。これは私が全く覚えていない。当たり前だが、人によって刻まれるものは違う。ししゃもに関して怒った件についても、記憶がないけど謝っていた。いや、ししゃも好きにとってはたぶん正しい対応なんだと思うし、久々にししゃもにチャレンジしても良い気がしてきた。


そんなものだから、開渠は、私にとってずっと、ちょっと怖い場所だった。それから程なくして、場所の危険性も認識されたのか、弦巻営業所裏の開渠には蓋がされて暗渠化された。今もその場所は住宅地のエアポケットのような暗渠スペースになっている。折角なので行ってみたら、わりと鮮明に当時の感じを思い出すことができた。わりと怖かったけど、しばらく佇んでみた。

左側の金網のところが鉄条網だったかと思う。

この川は蛇崩川という目黒川の支流のさらに支流で、バスの営業所のあたりから馬事公苑の方にちょっと歩くと源流とされる場所がある。源流があるという場所にはマンションが建っている。調べてみると、このへんには結構いろんな川の源流があって、今でも水が湧いているらしい。コンクリートに覆われた住宅地の地中からも、そんなに水というものは湧くものなのだな、と不思議な感覚になる。

人類は川の流れるところに住み着いて文明をつくるものだけど、水のあるところには何らかのストーリーが生まれてしまうものなのだなとも思う。そしていろんな暗渠の下にはそういういろんな話が埋まっている。