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0812「人格という麻薬」

昨日の日記で書いたことは結局どういうことなのかというと、象徴君主制みたいのは、「人格」というものに国とか政府とかそういうものを委託することによって、人々が飲み込みやすく、そして動きやすくする、ということなんじゃないかという話で、それは、昨今のソーシャルメディアなりで試行錯誤されてきたコミュニケーションの中で生まれたインフルエンサーによるコンテンツ展開につながるよなあ、という話だった。

つまるところ、「王様」「大統領」といった為政者というのは、常に個人であって、人格だったりする。政治に対する支持とかも、政策とか公約とか以上に、「人格」に委ねられてしまうところは確実にあって、それはもはや人間の習性と言って差し支えないのだろうと思う。「人格」が愛され、支持を得るために必要なのはたぶん「キャラ立ち」だ。小池一夫先生もよくキャラ立ちの話をされていた。キャラが立っていないとその人格は魅力的に広がらない。

トランプ大統領なんて、ああいうとんでもない人ではあるが、「キャラ立ち」で言ったらあれ以上にキャラが立っている人などいない。山本太郎であれ、N国であれ、小泉純一郎であれ、キャラが立っている人が時代を動かしてしまいがちなのは、世界史を見ても明らかだ。歴史上の多くの独裁者は、キャラが立っていた。あるいは、立てていた。

逆に、そういう為政者のようなポジションに、人格があまり見えない、たとえば「ゆでたまご」とか「武論尊+原哲夫」みたいな人たちがセットアップされたら、ちょっと困惑してしまう感じがする。「ゆでたまご」も「武論尊+原哲夫」も、1人の人間ではないので、「人格」としてはゆるいような気がする。もうこれは、「藤子不二雄」ですらもゆるい可能性がある。

そう考えると、「人格」っていうのは恐らく個人のことなのだ。人間は、「人格」という拡声器を通して、誰かが言いたいこと、やりたいことを理解する性質を持っていて、ゆえに人類の歴史は、個人名を中心に展開するのだ。

日本の戦国時代を収束に向かわせたのは、「尾張国」という組織ではなく、「織田信長」という個人だと伝えられる。しかし、実はそれを実現したのは織田信長個人ではなくって、柴田勝家とか明智光秀とか羽柴秀吉とかがみんなでチームプレイした結果であるはずだ。

18世紀にヨーロッパを蹂躙したのは、「フランス」ではあるが、往々にして「ナポレオン」という個人にフォーカスが当たる。しかし、ナポレオンだって一人でそれをやったわけではなく、すごい優秀なチームがナポレオンを旗頭にしてそれを推進していたのだろうというのは想像できる。

よく、野球とかサッカーの日本代表チームを「●●ジャパン」なんていうふうに監督の名前で表現したりするのも、組織を人格に委託している例なのかも知れない。

しかしここで困ったことが起きる。私自身も経験があるが、自分が参加して進めている活動が、誰か自分以外の人格に委託されちゃっている場合である。自分が手を動かしてつくったものが話題になったのに、テレビなりに出てしゃべるのは別の人、みたいなケースだ。自分が明智光秀だったとして、現場でめっちゃ苦労して自分の勢力の領土を広げているのは自分なのに、いつももてはやされるのは上役かつ委託の対象である織田信長だ、というときに、光秀たる自分は、フラストレーションを感じてしまうことがある。「株式会社尾張国」みたいな組織で活動しているのだったら良かったのかも知れないが、この世界ではあまりにいろんなものが個人の人格に委託されてしまい、最終的に組織の中の個人(光秀)が組織を代表する個人(信長)に自分のやっていること、考えていることを委託できなくなってしまったときに、悲劇が起こってしまう。

相手たる個人に対して何かを委託できるかどうか、あるいは、「委託したい!」とどれだけ思わせることができるかというパラメータが、いわゆる「カリスマ性」というやつなのかもしれない。

しかしこの人間の性質は厄介だ。極端な話、こんな厄介な「人格依存」の性質がある人類という種族には、民主主義なんて向いてなかったんじゃないかとすら思える。政党とか政策とかそういうものに思いを巡らす前に、「人格」という麻薬に酔わされてしまってわけがわからなくなる。トランプもN国も当選してしまう。

昨日の日記を書いた後に、こんなことに気づいた。これは困った。「チョコレイトの答え」どころではなくて、これでは人類の争いは終わらないではないか。