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相撲警察と、日本のメタル・ジャーナリズムについて②

私がここに書き散らしている雑文は、基本的に書きたいことを好き勝手に書くのだが、特に、大相撲のことについて書くと全然読まれない傾向があって、ゆえに、昨日から書いているテーマだと、普段から特に感じていない手応えを、笑ってしまうくらいさらに感じない。自分がいろいろ考えていることをアーカイブするのが主目的なので書くけど。

昨日から書いていたのは、簡単に言うと、若い相撲ファンの振る舞いに注意をする「相撲警察」みたいな人が話題になっていて、大相撲ファンクラスタでは「ああ、あの人のことか」と思っている人が存在する。という話だ。で、その様子が「日本のメタル・ジャーナリズム」が辿った道に似てるよなあ、ということを書こうと思っている。

「日本のメタル・ジャーナリズム」、つまり、ヘヴィメタル音楽に関連したメディアのことだが、そもそも、大相撲とヘヴィメタル音楽というのは、文化的な有り様というのが結構似ているように思う。

大相撲において最も重要なのは、1年に6回行われる本場所における取組だ。この本場所の取組の勝負の結果というのが、番付、つまり、大相撲のランキングに影響する。平たく言うと「本番」であり、NHKやABEMAで中継しているのはこの本場所だ。力士というのは、基本的にこの本場所の取組で勝ち、良い成績を残して地位を上げることを目的として厳しい稽古に励む。多くの大相撲ファンの興味の中心も、この本場所ということになる。

ヘヴィメタル音楽において最も重要なのは、まあそれは音楽なんだから、音楽だろう。ヘヴィメタルのミュージシャンは、すべて音楽家であり、音楽に関与していない限り、特異な衣装に身を包んだ奇矯な人たち、ということになる。彼らは楽曲をリリースして、それを聴いてもらうことで支持を広げ、評価を得て、やっと食っていくことができる。

ところが、大相撲は本場所、ヘヴィメタル音楽は楽曲、というメインの営みがあった上に、まず、大相撲の力士も、ヘヴィメタルのミュージシャンも、一般の人たちとは装いも格好も違う。力士はすごいでかいし、髪はチョンマゲだし、穿いているのは(関取なら)色とりどりのまわしだし、普段は着物だし、まあ、もう、ひと目見れば明らかに力士であることが明白だ。その上で、いろんな儀式的な決まりがある。三段目(大相撲のランク)以上の人じゃないと雪駄を穿いてはいけない、とか。土俵上での所作にももちろんいろんな儀式的な意味がある。ある種、存在自体が「一般の人と差別化されている」とも言える。

これはヘヴィメタルのミュージシャンにしてもわりと同じで、多くのメタルの人たちは長髪に鋲がたくさん打ってある革ジャンに身を包んだ、特異な見た目で活動している。「別に普通の格好でもメタル演奏してればそれでいいじゃん」と思われる方もいるかもしれないが、それはそうでもない。特に昔からのヘヴィメタルのミュージシャンは、細かいジャンルによって流派はあるものの、長髪で革ジャンを着ている、なんならメイクをする「べき」、つまり、形を重視している人は多い。ヘヴィメタルの世界には「様式美」を重視するという考え方が強くあって、そこでいう「様式」とは、「芸術作品・建築物などで、ある時代・民族、また流派などの中にみられる、特徴的・類型的な表現形式」ということになる。「様式美」は、音楽表現の中でも重視されるし、長髪革ジャン的な見た目においても重視される。

ので、ヘヴィメタルのミュージシャンも、大相撲の力士と同様、存在自体が「一般の人と差別化されている」と言える。

ゆえに、力士にしてもメタルにしても、ファンに対して「本場所だけ見てくれ」「音楽だけ聴いてくれ」と強くは言えない部分があるように思う。本場所以外、音楽以外の要素が注目されても仕方ない程度に特異な存在なのだ。メインディッシュ以外のキャラクターや生活などが注目されるのは自然だし、するなと言ったらファンにとって酷だ。

日本においても、海外においても、ヘヴィメタルファンの人口が一番多かったのは、1980年代から1990年代前半ということになるだろう。その時期から、日本には「BURRN!」という、ヘヴィメタル専門誌があって、めっちゃ売れていた(今もある)。

つづく。