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1005「彼岸のファンタジー」

ニューヨークの秋というものは非常に短く、夏が終わった、秋だと思ったら息つく暇もなくいつの間にか冬になっていたりするが、今朝はもはや気温的にも空気的にも冬になりつつあって、寒くなると稼働する決まりになっている建物のセントラル・ヒーティングも起動した。日が沈むのも早い。冬だ。

昨日は、日本唯一のヘビーメタル・ハードロック専門誌「BURRN!」について書いた。

昨日書いていて思ったけど、文字数がそこそこ行ってしまって1日で書くのが面倒で書けなかったことを今日書こうかなと思うが、その前にさらに1つ思ったことがある。

書いたとおり、「BURRN!」の読者層は下手したら50代以上がメイン、ギリギリ40代なのではないかと推察される。全然違っていたら申し訳ないが、30年前のギターヒーローが、いま、還暦を過ぎてもギターヒーローとして読者投票で勝つ世界であるということから考えて、そんなものなのではないか。

私は43歳だが、25年ぶりに「BURRN!」を購入してみて思ったのが、「字が小さくて読めない!」ということで、これは裸眼だと本当に全然読めない。私より上の年齢層が読者であることを慮ると、読者のほとんどが老眼になっているというリアリティもあるのではないか。良い悪いではなくて、実際、「BURRN!」と同時に空港の免税店で衝動買いしたハズキルーペを装着したらバッチリ読めたので、戦略的に字を大きくしたほうが良いのではないか。あとそもそも、思えば日本語の印刷された雑誌なんて本当に久しぶりに読んだものだから、三段組の横組の記事に戸惑ったりしてしまう。Kindleがメインになっているので、とても読みにくい。これは、ある種自分の脳が退化してしまった感じすらして、嫌だなあと思った。

それとも関連しなくはないが、ハズキルーペを掛けて記事やインタビューを読んでみて思ったのが、「BURRN!」は35年前と同じミュージシャンを表紙にしていることに象徴されるように、ある意味、インターネットが登場する前の風情というかスタイルを継承している稀有なメディアなのかもしれない、ということで、あるいはそれは「BURRN!」だけではなくて、「音楽雑誌」という形式がそういう位置づけにはまった「インターネット以前の時代の化石」なのではないか、ということだ。

私がメタルヒーローに憧れていた高校生時代を思い起こしても、その当時の音楽メディアを覆っていたのは「彼岸で天上人が楽しそうにやってる感」だった。

結局音楽というものを文字で語るのは限界があるし、アーティストが楽曲のコンセプトや方向性について語る目的も、新しく発売されるアルバムの内容に興味を持ってもらうということだったはずだ(それは今も変わらないかも知れないが)。ただ、今の時代はもはやSpotifyで探せばコンセプト云々をイントロにしなくても楽曲にアクセスできてしまう。しかし、当時の音楽雑誌への掲載は、そういった新作プロモーション・プロパガンダの意味合いが今よりもっと強かった(と今は理解できる)ので、今思えば、どんなにイマイチな新作であっても、「これが俺たちの最高傑作だ」とミュージシャンたちが表現せざるを得ないのも理解できる。新作を「これが俺たちの最高傑作だ」と言っていた人たちが、その次の新作のインタビューで前作をこきおろしたりすることがやたら多かったのは、もうあれだ。破壊の象徴にも見えたメタルヒーローたちも、「資本主義」の中で一生懸命生きていたということなのだろう。

そしてその延長線上で誌面を埋めていたのは、バンドを巡る人間関係であったり、音楽とは関係のない、一般のファンからはアクセスができない私生活に関することだった。

「BURRN!」から追放された初代編集長の酒井さんのいろんなツイートがまとめられているのを見つけたのだが、そこに並んでいるのは、「誰それとどこにいったとき、あの誰それがこんなこと言ってた」みたいな、「有名人と知り合い」な人がそれをドヤるときに言いそうなフレーズばかりで、でもってこれは今の編集部の人たちからすると不本意なのかも知れないが、まあ、25年ぶりに購入した「BURRN!」に、そういうノリは残っていたとは言える。

それが、「彼岸で天上人が楽しそうにやってる感」だ。

若かりし頃の私たちは、どうしても、そういう彼岸=「メディアの中」に行くための壁を超えることが難しかった。ゆえに、その彼岸を垣間見るためには「BURRN!」や他の音楽雑誌のような印刷物を通してそれを必死に覗き込むしかなかった。だから当時はそれで全く問題なかったのだ。そしてそうであるがゆえに「オルタナはクソ」「女性ヴォーカルはクソ」みたいな形でフォロワーをリードすることも当然だった。「批評権」がメディア側にあった時代だ。

ところが当然ながら、インターネットが登場し、ミュージシャンが自らTwitterのアカウントを持つようになってしまうと、「ありがたい印刷メディア」以外からアーティストのコンテクストにアクセスできてしまうようになったし、音楽雑誌が無くても、新作への期待をつくることが可能になってしまった。そして何より、「批評」は一般の人たちが勝手にやって公開できるようになった。「批評権」は、メディアから奪われてしまった感じもする。

MP3とかサブスクリプションとか以前に、音楽業界っていうのはハード的にもインフラ的にも急速な変化が起こって変わらざるを得なかったのだなと思う。

そうなったときに、「彼岸で天上人が楽しそうにやってる感」「有名人と仲が良い人たちの感じの悪い自慢」に変異してしまう。前も書いたかもしれないが、その変化についていけずに大クラッシュしたのがたぶんフジテレビで、そういう意味で昔のフジテレビは非常に「楽しそうな彼岸の世界」をつくっていた。が、どこかのタイミングでそれが急速にそのノリが寒くなってしまった。

今探したら結構最近に思いっきり書いてたし、音楽雑誌にも言及していた。書くことがループしている。

で、そんな中で「BURRN!」は、「そんなの関係ねぇ」とばかりに変わらぬ「彼岸のファンタジー」を描き続けているように見える。そういう意味で「BURRN!」を始めとする音楽雑誌って、「インターネット以前の時代の化石」なのだなと思うが、逆にインターネットが無かったら、「25年後」のいま、私たちはどういう音楽を聴いて、どういうコンテンツをどのように楽しんでいるのだろうか、とか想像すると楽しい。そもそもインターネットなかったら私食えてなかっただろうから、「CD」のような贅沢品を買えるような生活レベルにはなかった可能性がある。