0310「みんな映像化できる日」
ここのところそこそこ頑張った内容の日記を書いてしまった。まあまあ気持ち的に面倒になってきたので、元に戻そうと思う。
日本が3/11だったので、だいたい同じくらいの時間帯から下記の、当日のNHKのニュースをずっと流していた。
地震が起こってしばらくは、津波に対して正常化バイアス(?)が働いていたことも見てとれるというか、しばらく津波の高さが低めに報道されていた。
原発の話は、地震発生から数時間経っても出てきていなかったこともわかった。
この大地震から始まる災害は私の周りの沢山の方々の人生を変えた出来事だったと思うが、私とていろいろな影響を受けた。妻の母、つまり義母の故郷が福島の郡山なので、少なからずいろいろあった。
私の場合、当時はPARTYの本格的な立ち上げの直前で、表向きは「流しのディレクター」として活動していたが、裏では既にPARTYのプロジェクトを他の人から先行して仕切っていた。なので当日は、社員として入社予定の六反さんに、新規案件の説明をするということで、彼が一時的に働いていた新宿のシェアオフィスに打ち合わせに行っていた。結構忙しい予定の日だったかと思う。
打ち合わせ中に揺れが来た。しばらく無視して打ち合わせを続行したが、揺れが激しくなってきて外に出ようか、となって走り出した。その雑居ビルはとても築年数が古いビルで、4階だったかから階段を揺れに応じて「ピシッ!」とヒビが入った瞬間を見た。コンクリートの粉が舞って、「ああ、これはやばいやつだな」と思った。そのビルの目の前は駐車場になっていて、盗難用のアラームがそこかしこから鳴り響いていた。
六反さんは、よほど動転していたのか、携帯電話の代わりにエアコンのリモコンを手に持って出てきていた。
などというように、この地震からしばらくの時間というのは、多くの人にとって忘れられない時間であるはずで、かなり映像的に記憶されている時間なのだろうと思う。私もこの後、新宿から世田谷の実家まで歩いて帰ることになるのだが、そのルートも、その中であったことも、すべて鮮明に覚えている。茶沢通りのタバコ屋でハイライトを買ったら、なぜか飴ちゃんをくれたとか、環七と世田谷通りのピーコックで、チョコチップ入りの固いスティックパンみたいなものを買って歩いて食った、とか。書こうと思えばいくらでも書ける。
こんなに皆がいくらでも思い出して書ける日はないのではないか、とも思える。
自分の場合、週末の3/13の日曜日に、家の近所の馬事公苑前の広場で、外で子供と遊んでいるのがなぜだか辛くなってしまって、家に戻って「SETSUDENER」を開発したくらいのところで映像的な記憶が途切れる。
2011年の春先からの1年そこらというのは、災害とその先の時期であると同時に1つの時代だったわけで、その時代にはみんなiPhone4を持っていた。ホワイトモデルの発売は2011年の4月28日だ。この年の年末には、スギちゃんが「ワイルドだろぉ」でブレイクした。
岡映里さんの「境界の町で」は、そういう、震災とその後の時間を、数日ではなく、もっと長い期間、とても解像度高く映像的に表現している本で、単純に起こったことではなく、その「震災の後の時代」をそのときにしか使うことができないアンテナを使って文章化している、唯一無二の本だと思う。Kindleがないので東京に帰ったときにしか読み返せないが、いろんな人に読んで欲しい。