0304「多摩センターはアートだ」

ニューヨークは昨夜から大雪警報が出ていて、ちゃんと降らないうちにニューヨーク中の学校が休みということが決まって連絡があり、その影響で日中に会社に子供を連れてくる人が出たりして打ち合わせが飛んだりした。

友人との会話の中で、デザインとアートの違い、みたいな話題について久しぶりに考える機会を得た。私が(にわか)デザイナーとして何らかのデザインとされる作業の対価としてお金をもらったのがたぶん1998年とかなので、業種は変わったけどかれこれ20年くらい「その手の仕事」に従事していることになる。すごい。20年っていったら相当長い。20年もニューヨークに住んでいたら英語がちゃんとしゃべれるようになってしまう。その間、macを使って何かつくる以外の仕事で生計を立てたことはないので、これは一応、20年間生き残ってきたということでもある。そう考えると実際なかなかすごい。自己肯定感が上がる。

で、それでいうと、超しょぼかったが、デザイナー一本槍で食っていた時代もあった。グラフィックデザイナー時代にやった一番でかくて嬉しかった仕事は、UCCの烏龍茶のパッケージデザインで、ググったら、かろうじて画像を発見した。ペットボトルだけじゃなくて、その後紙パッケージとかに展開しているはずだ。これが世の中でちゃんと売られているのを目にしたときは相当嬉しかったものだ。

デザイナーとかクリエイター的な職業に就く人は、ちょこちょこ、この「デザインとアートの違い」問題について考えることはあると思う。今回はそういう文脈ではないが、すごく良くこれが勃発しやすいのは、「クライアントワークで自分が好きなものをつくれない」問題・「好きなもの作ってるとお金にならない」問題とも関係するので、そのへんに直面しやすい若年の方はより多くこの問題に直面しがちなような気がする。しかし、好きなもの=アート/クライアントワーク=デザインなのかというと、それは全然違うので、そういう話になったら「それは違うと思う」というだけの話である。
で、この後私はこの問題に関して私見を書くのだが、結構この領域はいろんな宗教を持っている人がいるので、まず先に書いておくと、今から適当なこと書きますが怒らないでください、ということである。

お金にするための方法とかスキームは各々で違うので、それはうまいことやればよいという話で、デザインとアートは、わりと単純に作用と役割が違うだけなんじゃないかと思う。この議論になるときに、いつも脳内で勝手に思い浮かべるのがこの図だ。

いろんなコミュニケーションというのが、この図で成り立っているとする。こういう構造は世界のそこかしこにあるので何でもいい。
これを、社長が部長に指示出して、部長が課長に指示出して、平社員が課長の指示を受けるような図だと考える。

で、仕事をしていると、たとえばあなたが平社員Aで、とある部品を調達できるのが別の部署の課長のBさんだったとする。その際に、通常はAが直属の上司である課長に要請を出して、さらに部長・社長と通して別部署のBさんに要請を下ろしてもらう。

しかしこれはくそめんどいので、平社員Aと課長Bの間にホットラインをつないで、迅速に業務が進むようにする。

みたいのが、デザインというものなのではないかと思う。既に動いている社会の中にある点と点をつないで、より世の中をわかりやすくしたり、生きやすくしたりするようなものがデザイン、となると、デザインというものは図のように、両端に何かがあってそれをつなぐもののなのではないか。

じゃあアートっていうのはこの図だとどうなのかというと、うまい例えになるかわからないが、平社員Aが部品を調達できないからとりあえずどうにかしようと思って課長Bの奥さんを誘惑してみるとか、YouTuberになって内部告発してみるとか、なんかそういう、「もしかしたらこういうやり方もあるんじゃないか」という新しいアプローチの提示なのだと思っていて、この図の赤線みたいに、今までと違う方向に何かを投げかけるものなのではないかと思う。

ここに、東京都の電車の路線図がある。たとえば、世田谷区の田園都市線の駒沢大学と東横線の自由が丘駅は、実は距離的には自転車で行ける程度に近いのに、電車で行くと渋谷とか二子玉川を迂回しなくてはならないので遠い。なので、駒沢大学と自由が丘に電車を引くと、両方の街がいろいろ住みやすくなる可能性がある。これは実現したらデザインなのかもしれない。多くの路線拡張みたいのはデザインなのだと思う。

一方で、子供の頃に東京の路線図を見ていて、とてもミステリアスだなと思っていた場所がある。それは地図の左中央付近にある「多摩センター」だ。今でこそ京王多摩センターは橋本駅とつながっているし、小田急多摩センターは唐木田まで伸びているが、私が子供の頃は多摩センターは終点で、行き止まりだった。つまり、多摩センターというのは、この縦横無尽につながった路線図の混沌の中にあって、おもむろに出現した「その先が定義されていない」駅で、網の中にぽつんと孤立していた。

それもそのはずで、多摩センターというのはもともと何もなかった場所にむりくり街をつくることにして電車も引いてしまった、シムシティ感のある街なので、考え方といえばどちらかというとアートなのではないかと思う。

そんなわけで、幼少時からミステリアスに感じていた「多摩センター」だが、その多摩センター育ちの女性と結婚し、多摩センターの妻の実家で義母とゴロゴロしながら韓流ドラマを観ることになるのだから、やはりそれはそれでアートだなと思う。