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155話を語りたい/西川火尖

今回はQaiメンバーそれぞれ好きなものを好きなだけ語る回なんですけど、こう見えてそこそこ幅広く漫画は読んでいて、好き?うん、好きです漫画。それで今日は漫画について、どうせなら詩歌とのからみで週刊ヤングジャンプで好評連載中の「かぐや様は告らせたい」の155話についてピンポイントで語るぞ。(ネタバレが大量に含まれるので単行本派の人はご注意ください)

かぐや様は告らせたいーあらすじー
将来を期待されたエリートたちが集う名門校・秀知院学園(しゅうちいんがくえん)。
その生徒会のメンバーである副会長・四宮かぐやと会長・白銀御行はお互いに惹かれ合っているものの、高すぎるプライドが邪魔をして半年が経っても告白することが出来ない。素直になれない二人は、いつしか自分から告白することを「負け」と捉え、「いかにして相手に告白させるか」ばかりを考えるようになり、権謀術数の限りを尽くした“恋愛頭脳戦”を繰り広げる。但し、連載が進むうちに“恋愛頭脳戦”描写および展開は減っていき、極度のツンデレ同士のギャグ色の濃いラブコメとなっている。(Wikipedeiaより)

漫画において、いわゆる学園物は一大ジャンルを築いている。その中でも「生徒会もの」は現実感と特別感の折り合いがよく、生徒会室という舞台や学園イベントの中心になれるポジションであることなど物語進行上フックをつくりやすく、少年少女青年漫画問わず良作が多い。「かぐや様」も生徒会ものに分類され、主人公同士のラブコメと共に、生徒会メンバーとの掛け合い、コメディが大きな柱になっている。今回取り上げる155話も後者の生徒会コメディの色濃く出た回である。

155話あらすじ(ざっくり)
意外にも今まで二人きりで会話することのなかった主人公の生徒会長 白銀御行と、後輩の書記 伊井野ミコ。白銀は伊井野に対する苦手意識を払拭すべく話題を探し、共通の趣味・読書にたどり着く。そこから詩集、そして伊井野の自作の詩に話が及び・・・

伊井野の自作の詩に話が及び・・・
伊井野の自作の詩に話が及び・・・
これリアルタイムで読んでた時思ったんだけど、これ

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この食いつき、俺やん。

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俺やん。

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俺やん。ここで一句!やん。

ここで一句!とは
何らかの巡り合わせで俳句をやっていることが周囲にバレた場合、周りからものすごく軽い気持ちで「おっ詠んでくれよ」「ここで一句!」などと囃し立てられて、「え~~~どうしよう~~~~ じゃあちょっとだけ・・・・・・ 絶対笑わないでくださいよ~」などといいつつ、即興なら即興で、ストックならストックでなるべく最善を尽くす発表会の事である。ただし、その後超絶微妙な空気になることがほぼ確なため、人によっては全力で避けるべき事故のようなイベントとも言える。尚、この155話についてはどちらかというと当たり屋に近い。cf.ここで一句ハラスメント

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やばい始まった。このあと微妙な空気になるの分かりながらも、わずかでも、分かってもらえるかも、詩の話ができるかもっていう期待、わかる。わかるよー。わかるよな?な?

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わかんないかーーー
ちなみにその後、ミコちゃんに詩の感想を求められた会長は
「流れ星のくだり・・・・・・・アレは少女の願いと言うモノの儚さを表してる感じして・・・」「良かったなぁ」と探り探り切り抜けるのだが、無理して絞り出す感じやその辺の描写が「ここで一句!」経験者からすると凄まじくリアルで、見ていていたたまれなくなってしまって、はっきり言ってめっちゃ面白い。この「かぐや様は告らせたい」という作品の最大の武器はつまるところこの心理心情のリアルさにあると言っていいだろう。それは写実的なリアルにとどまらず、共感を拠り所とした拡張的なリアルさが真骨頂ではないだろうか。
つまり「かぐや様は告らせたい」は絶妙な共感ポイントで読者を接続し、それをとっかかりに強力に感情移入させて、共感の延長上に、ありそうだけど実際の現実ではちょっとないかも的なオーバーな要素やキャラクターの個性を拡張的に置くことで、それらの行動や心情にもリアリティを持たせることに成功しているのだ。オーバーな要素までリアルに感じられるからこそ、彼らが真剣であればあるほど笑いが増幅される構造になっている。「バクマン(原作・大場つぐみ、作画・小畑健 集英社)」の82話で言及された「シリアスな笑い」とはつまりこのことである。
ちなみに私は青少年誌のラブコメは基本的にあまり読めない(恋するワンピースだけは別格)。いちご100%だって、To LOVEる -とらぶる-だって、ゆらぎ荘の幽奈さんも、ニセコイも、ぼく勉もI”s<アイズ>も、終末のハーレムも源君物語もパラ見しかしてないし、せいぜい電子書籍の一巻無料くらいしかいれてない。なぜか!?これらの作品に共通するウリがそのまま弱点になっていると思うからだ。それは「ラッキースケベ」だ。すぐぶつかって押し倒す、意図せず覗いちゃう。誰か来たとか言って掃除用具ロッカーに男女で隠れて密着するとか、程度の差はあれ、こんな描写が続いていたら、俺は俺はストーリーに集中できないっ。そのくせ描写は成人誌に満たない。まぁ青年誌の制限の中でエロの可能性を追求するというのは、俳人的な心意気で言えばめっちゃわかるけど、やっぱりあまりストーリー的な面白さに寄与してないエロが多すぎるんじゃないかなとは思うんだよなぁ。というわけで「かぐや様」も最初はそういったラブコメと同類だろうと思って避けていたのだが、確認する限り既刊16巻で下着の描写は78話の扉絵の一枚だけ(下図参照)、ラッキースケベは物語進行上避けられないもののみに絞られており、すごくリアルである。

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(※お分かりだろうか?腰のところに本当に控えめにちらりとある。)
ラッキースケベの無い日常は、学生時代何もなかった私たちに対する超強力な共感ポイントとして作用する。(もちろん学生時代にかすりもしなかったエロハプニングを漫画という場で追体験させようというのも一つの武器ではあるが、それと恋愛心理を絡めても実のところ相乗効果は低いどころか逆効果なのではと言うのが私見だ。なお、単純に物語の足を引っ張るだけのセクハラ描写は言うまでもない。さらに言えば安易な性的コンテンツ化は、成熟した社会とは言えない日本社会においては多くの問題の解決を遅らせ固定化する方向に働いてしまっていると思うのだが、その点は今日は割愛。日本社会は精神的には18歳になっていないのに老衰で耄碌して呆けて死にそうで質が悪いのでこのことは別の機会にもっと真正面から書く。)決して「えっちなのはいけないと思います!」と言いたいわけではなくて、もっとエロもストーリーも大事にしろよっていいたいだけなんだよ。
閑話休題。書評界隈では「かぐや様」を異色ラブコメとする向きが多いが、むしろ恋愛という心理描写の極致を扱う以上、これこそ王道というべきだろう。また、恋愛で泣かせに来るという要素は余りなくて、笑いの質がよく、そこも自分的にはポイントが高い。

そんな共感路線を貫く「かぐや様」だからこそ、この155話の伊井野ミコの詩の扱いは、作者の狙い通りめっちゃ共感しつつも、「ポエム(笑)」としてネタ化されることに多少のやるせなさを覚えてしまったのも事実だ。かぐや様のターゲット層は非常に広いと思うし、そして共感性の強さから世間一般の感覚もやはり表面的には作品内に反映されやすいと思う。その中では詩を出しても「ポエム(笑)」という扱いが第一にきてしまうことはやはり避けられないのだろうか。作中のミコちゃんの詩だって、「誰の願いも叶えない流れ星」のフレーズは良くできているはずなのだが、それも含めた作者の赤坂アカ先生の痛めのミコちゃん描写が絶妙すぎて、感想まとめサイトでもイタい子扱いに拍車がかかっているのが現状である。
しかし彼女はめげない。すかさず次の詩を読み始める。

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ミコちゃんの本気度が結局シリアスな笑いとして「ポエム(笑)」に結びついていくのは文句なしに話の構成として上手いのだが、作者がもし幾つか現代詩を調べたうえで、ミコちゃん用にデチューンしているならば、もう少し!もう少し詩の話をしようよ!とは思うのだが、

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朗読からのこの展開でやっぱり笑ってしまう。笑ってしまうけど、俺がミコちゃんをここまで擁護するのは、この155話掲載の前日、俺のQaiのインスタの更新回だったんだけど、俺の句が、
黑い電氣黑い夜業のオルゴール 西川火尖
で全然他人ごとには思えなくて!!!!!!やっぱりこれ俺やん!!!
だから真っ黒なコウノトリめっちゃくちゃいいやろが!!!!
ところどころ拙い感じはあるけど、雰囲気あるよね!!!!
やはり「願いを叶えない流れ星」とか、「真っ黒なコウノトリ」「枯れたキャベツの種」とか相反する要素を組み合わせたイメージを繰り返し使うことで、既存の物語(流れ星だったり、出産のおとぎ話)にゆさぶりをかけようとするところなんか、彼女の詩の態度として確立していて、その点もっと作中で言及してもいいんじゃないかな!
ところで、

黑い電氣黑い夜業のオルゴール 西川火尖

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どう?

もしよかったら、noteもインスタもツイッターもフォローして感想なんか書いてくれると、うれしいなって思います。

使用画像は「かぐや様は告らせたい 赤坂アカ 集英社」78話、155話(電子版)から引用。

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