【創作と道具】万年筆への憧れ/柴田葵
みなさん、こんばんは。
作りながら生きていくための同人Qai(クヮイ)です。
noteでは、毎月同じテーマについて同人4人が順番に書いています。しかし、8月はお休みしました。なぜかというと、それぞれの子供たちが夏休みだったからです。私たちQaiは4人。なお、子供は合計7人です。(さあ、これで誰の家に何人いるかわかりません。アブラハムみたいに誰かんちに7人かもしれません)
「作りながら生きていく」というテーマを私たちは大切にしています。作るため、そして家族と生きるための戦略的夏休みでした。そしてきちんと9月にnoteを再開する。大人ですね。
同人Qai、また4名それぞれ、詩歌執筆関係のお仕事ウェルカムです。みんなちゃんとやるタイプです、ぜひよろしく!
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さて、今月のテーマは「創作と道具」。
まずは私、短歌に取り組んでいる柴田から書きはじめます。
創作するときにどんな道具を使うか、というと、私の場合はあまり特徴がありません。スマートフォンにメモをすることもありますが、基本的にはノートパソコンで、Wordに縦書きです。なお、縦書きでないと、私は短歌がつくれません。なぜかというとーーこの話ははじめると長くなるので、また別の機会に。
でも、本当は「万年筆です。万年筆でないと短歌がつくれません」って言ってみたい気持ちがあります。つまり、万年筆への憧れがあります。
私が小学生だったころ「せんねんひつ」というのが流行っていました。大人になってから「せんねんひつを知っている」という人に会ったことがないので、もしかしたら私の通う小学校近辺だけのブームだったのかもしれません。プラスチックのまっすぐな本体に印刷された「せんねんひつ」という銀の文字。一見すると普通のカラーペンですが、キャップを取れば、万年筆のような「かっこいい」ペン軸が見えるのです。私の「せんねんひつ」は濃い紫色で、友達への手紙を書いたり、大人になった今ではよくわからない設定のよくわからないリストを書いたりしていませした。
「せんねんひつ」はもちろん千年保たなくて、どこかにいってしまったし、もうどこにも売っていません。
調べてみると万年筆はイギリス発祥のもので、英語ではfountain penというそうですね。泉のペン。インクが湧いてくるペンという感じでしょうか。なるほど、という名称です。
それを日本で「万年筆」と翻訳した人は誰か、なぜ万年筆と訳したのかは、諸説ありますが定かではないようです。
つまり、長く使えるという意味ならば「万年筆」は「せんねんひつ」だってよかったのです。もしかしたら候補に上がっていたかもしれない。
「千年筆」と書いて、となりに「万年筆」と書く。ふたつを並べてため息をつく。万年では大風呂敷を広げすぎだろうか。ここは千年か。いや、鶴は千年亀は万年。やはり縁起の良い「万年」でいきますか、ね、社長。
それにしても「万年筆」って良い名前ですよね。もし「わくわく泉筆」とかだったら、私はこんなに憧れません。万年筆に憧れていたからこそ、子供のころの私には「せんねんひつ」が宝物だったのです。一万年生きた人はいませんし、一万年前のことはよくわかりません。一万年先のことはもっとよくわかりません。私は生きていないと思うけれど(どんな技術革命があるかわかりませんからね、あと、法的に何を「死」とするかにもよりますから)でも、もしかしたらこの万年筆は書けちゃったりするのかなあ、だって「万年筆」だもんな。そういう、やたら大きな気持ちになれる「万年筆」というのを、いつか手に入れたいと思っています。
wordに打とうが万年筆で書こうが、一万年後に私の短歌は残っているとは思いません。仮に残っていて解読できたとしても(そして人間たちが生きていたとしても)その頃の人々にはきっと面白くないでしょう。いくら馬鹿みたいに大風呂敷を広げようとも、私の短歌はそこまで射程が長いはずがありません。ただ、生きている私がつくりたい短歌、生きているあなたに読んでもらいたい短歌を真摯につくれば、もしかしたらその少し先の人にとっても面白いものができるような望みはもっています。人間はそんなにすぐ変わらないはずです。
それでも、大きな気持ちを携帯するのって素敵ですよね。最近、ぜんぜん大きな気持ちを携帯できません。ちょっといろいろなことが落ち着いたら、私の気持ちを大きくしてくれる「万年筆」を買いにいきたいと思います。それでは。
右手にはペンを左手には日々をわたしの言葉はわたしのものだ
/柴田葵