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部活と私|演劇部だったよ、今も|柴田葵

私は中高一貫校に通っていて、その間ずっと演劇部だった。6年間だ。
身長は164cm。短髪で眼鏡をかけていた。当時はまだハードタイプのコンタクトが主流で、たびたび目は痛くなるし、高価で、煮沸消毒が必要だった。だから眼鏡だ。

自意識が強すぎたんだと思う。簡単にいうと、私はもったりした体型だった。ニキビもひどかった。クレアラシルも効かなかった。男子とは喋れなかった。女子だって仲良くなるまでには時間がかかるし、緊張した。いつ終わるか目処の立たないダベりも苦手だった。そして、これは今でもそうなんだけれど、人の顔と名前を覚えるのが極端に苦手だった。学校のせいではない。どの学校でも、私は同じだったと思う。当時の私には「冴えない女子中高生」という肩書きこそが自分だった。これは大学まで続く。
大学を出てからたった十数年の間に、就職して9kg痩せ、妊娠によって15kg太り、そのあと12kg戻り、再び妊娠で11kg増加し、なんやかんや健康上の適正体重に落ち着いた今なら解る。私の見てくれや能力や肩書きは常に変わりつづけるし、私のことなど誰も気にかけていないと。突然大声で叫んだり、机をなぎ倒して暴れまわったりしない限り、大人しく害もないクラスメイトのことなど、それこそ机と変わらない存在なのだと。でも、学生のころの私につける薬などなかった。クレアラシルしかなかった。

しかし、演劇部はどうだろう。私はたいてい男役を演じた。今は知らないけれど、当時、演劇部はどこも男子部員に比べて女子部員が過多になる傾向があったのだ。そして事実として……当時入手できた商業演劇の脚本の多くは男性が主役であり、魅力的な脇役も男性であることが多かった(私たちの部は、当時は脚本を自前で書くことはせず、商業演劇の脚本を選んで上演していた)。役を演じる上では、馬鹿を言おうと、誰かを殺そうと、自分が死のうと、人から嫌われようと、恋に落ちようと「私」を笑う人はいない。しかも、男性として太めの眉を描き、体型を隠して肩幅のある服を着た私は、なかなかハンサムだった。気になる鼻声も、腹筋を使って低い声で話せば気にならなかった。本当に自由だった。私は何にでもなれた。思う存分に生きることができた。

もちろん、演劇というのはそんな「救い」めいた部分だけではなくて、照明や音響、美術、演出、どの側面もクリエイティブで面白かった。また、多くの優れた脚本において、台詞は「音」についても考え込まれており、音読するだけですばらしい高揚感を得られた。発声の仕方、リズムの取り方を考えるだけで楽しかった。そういった演劇の魅力を、共に面白がれる友人もできた。だから、高校2年生までは本当にプロの役者になりたいと思っていたのだ。自分の生活から演劇がなくなるなんて、考えられなかったから。

私の「創作活動」は演劇から始まっている。漫画『ガラスの仮面』の北島マヤは憑依したように他人を演じるけれど、それでもあの長編漫画の主人公は北島マヤであるように、悪役でも拍手を浴び花束を抱くように、演劇において役者は嘘をついているわけではなく、常に本当で、なのに自分を隠すわけでも失うわけでもない。演技はむしろその人そのものだ。私は私のまま、そのとき持っている肩書きや外見や、性別や年齢や立場から離れることができた。私だけではない。ひろびろした青い布は海になった。大きく上下に振れば波になった。我々は演劇を通して、体や言葉や物や音や光に、さまざまな意味を付与することができた。

だいぶ大人になった今の私は、そういった肩書きや外見しか「簡単には」他人と共有しづらいことも理解している。私の本質も、あなたの本質も、理解できないということを理解した。私は常にひとりだけれど、変わりつづけるし、複数の私が共存しつづけている。その変化や、時には相反する多様性を含めたのが本質といえば本質かもしれない。本質って、まるで魚が飲み込んだパチンコ玉みたいに、体内で小さく硬く重く光っていそうだけれど、案外ぼやぼやと大きいものなのかもしれない。体より大きいのかもしれない。

演劇部じゃなかったら、私は短歌をやっていなかっただろう。ましてや、歌集を出すような機会はなかったはずだ。理由は一言では言えないけれど、おおよそ、上記で書いたようなことだ。書いてみて改めて、演劇部じゃなかったら短歌をやっていなかっただろうなと思う。思いすぎて2回も書いちゃったよ。

演劇部の友達と会いたいな。みんな元気にやって、元気にいつか会おうね。

あの友は私の心に生きていて実際小田原でも生きている/柴田葵


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