甲州街道を歩く 第四回 四谷から江戸城を経て日本橋 太田泉 2021年9月11日 21:19 第四回目の「甲州街道を歩く」ですが、先月、痛風が発症し、一時まったく「歩行不能」という大事件が勃発。8月は残念ながら断念しました。リハビリには入ったものの、まだ朝のウォーキングも再開できない状態です。仕方ないので9月も延期しようと考えていましたが、そういえば内藤新宿の先、四谷から日本橋まで残していたのを思い出しました。そこで短距離ですがリハビリ兼ねて、挑戦することになりました。 今回のテーマは「江戸東京散歩」として、古地図を見ながら江戸の町を歩いてみることにしました。なにしろ江戸時代の大都会の街歩きです。お屋敷町を楽しみます。 旅のお供は、こちらになります。いまはなき地図の「人文社」の出版です。江戸古地図と現在の地図が左右で並べて、比較しながら歩くことができます。 今回は距離も短く、急ぐ旅でもないので、前々回の終了ポイントである四谷駅で、この古地図を眺めながらPaulで朝食を取って、じっくり作戦を練りました。ふむふむ、「そうか紀尾井坂は、徳川御三家の紀州・尾張・彦根井伊の頭文字なのね」的な博学がいっぱい掲載されています。ちなみに今日の江戸切絵図の版元の「金鱗堂」も紀尾井町にあったそうです。 ということで、ゆっくり朝勉してたら、雨が降ってきてしまいました。帽子を装備して、四ツ谷駅を皇居方向へ向かいます。ここで少し勘違いして逆走する事件があり、膝が痛いのに、なんと1Km近くのロスをしました!不覚!! 四ツ谷駅からだと、日本橋まで6Kmになります。ここはもう「甲州街道」とは呼ばれず、「新宿通り」と言われています。国道20号線であることはこの標識が証明してくれています。 麹町の由来の立看です。家康が江戸入府後、「四谷掘」を掘った土で周りの谷を埋め、このエリアができました。前々回の内藤新宿で学びましたが、家康の江戸の街作りは、治水がメインテーマでした。麹町一帯はその後、旗本などのお屋敷町になりました。 今日の追分は、新宿通りと内堀通りでした。ここが「甲州街道の終わり」になります。ちょうど東京FMのビルの場所ですね。英国大使館が近いです。ここから先は江戸城の領域になります。内堀通りに入ると、皇居ランナーが一気に増えました。皇居をぐるぐるしてて、面白いのかなぁ、どうせなら、甲州街道を走ればいいのに。なんて痛み出した膝を意識し、大汗かきながら思ってました。 出ました「半蔵門」です! 甲州街道の最重要拠点です。 江戸で、徳川家康や歴代将軍に何かあったら、甲州街道で甲府方面へ逃走するというプランが、徳川幕府の防衛戦略のベースでした。その最重要拠点が甲州街道の出発地点である半蔵門です。 ここは当時の防衛大臣である服部半蔵が直接守る、文字通り「半蔵の門」だったのです。甲州街道の本当の目的はここにあります。 当時の防衛拠点だった半蔵門、いまでは警視庁が守っています。ここではっきりしてきた今日の旅の裏テーマは、「防衛」であり、「警護」です。ということで、ここから警察関係の考察が増えていきます。なにせ、ここは政治の中心地ですから、江戸の時代も、そして、いまも。 半蔵門から千鳥ヶ淵を望む、東京らしい風景です。新旧の合致した絵姿ですね。とても癒されました。家康がこうして水辺のある風景をつくってくれたことに感謝します。 遠くに国会議事堂が見えました。令和の政治の中心です。手前は最高裁判所です。平河町から、虎ノ門にかけての現在の中心地ですね。江戸城からもそう遠くない距離にあるんですね。 見えてきました、桜田門です。この周辺が幕末好きなら有名な「桜田門外の変」の舞台です。 近くに井伊掃部頭のお屋敷があり、登城中に尊王攘夷を唱える水戸藩士に暗殺されました。歩いてみると、とても短い距離の間で襲われたことが実感できます。こういう身体感覚での実感は歴史を語るうえで重要だと思います。歩いてこその歴史体験です。 わかりやすいですね「桜田門」です。半蔵門からここまではゆるい下り坂でした。雨はやみ、晴れて、蒸し暑くなりました。 現在の桜田門には、あの「警視庁」があります。この風景、刑事ドラマでお馴染みですね。現在の国の重要人物を守るもは、警視庁のお仕事です。まさに現在の服部半蔵ですね。さて、現在の首相は、一丁事が起こったら、どこから逃げるのか。どこにに逃げるのか、興味がわきます。今の時代に、江戸時代のような「逃走経路のために街道を一本整備する」という壮大な余裕が見えないですね。首相機で空に逃げるんでしょうが、シン・ゴジラみたいにそれを狙撃されたら一発アウトですね。Bプランはあるのかな。 さぁ、桜田門をくぐると、ついに江戸城内です。この門、堂々としていい門構えでした。 門の正式な名前は外桜田門。なかには別に「内桜田門」もあります。ここは外桝形という防御性の高い構造になっています。 江戸城内は、実際に歩くと、なにからなにまで「だだっ広い」です。膝痛を抱えて、足引きづりながら、歩く場所じゃなかった。すべてのスケールが巨大です。たぶん、建築道楽の秀吉に対抗するために、質素ではあるものの、スケールで対抗する城を構想したのでしょう。それから歴代将軍が拡充に拡充を重ねて豪華にしていったはずですが、城のスケールは家康が決めたものです。関が原の前の大老の時代に、天下を狙う家康の野望が透けて見えます。 有名な二重橋は正面から撮るとみんな同じ構図になってしまうので、回り込んで違うアングルに挑戦してみました。こうして撮ると柳が風情ですね。 「江戸と明治」、今日の旅では、このイメージを探していました。 徳川幕府的な「江戸城」と、天皇のおられる明治の「皇居」の共存。この1枚から2つの時代が見えてきます。 まさに「皇居は、江戸城である」。 徳川家康が去り、明治天皇が入られた場所、忘れがちだけど、改めて感じる事実なのです。 「江戸城=皇居」から見える東京駅。 たぶん、徒歩旅の江戸時代では、この風景に愛着はなかったでしょうが、今はこれが旅の終着点に思えます。ここから日本への旅が始まるような、すがすがしい気分の1枚です。 内桜田門である桔梗門です。ここからは皇居参拝の手続きが必要とのことで、今日はいけませんでした。どちらにしても甲州街道の旅人のなかで、この中に入れた人は数えるほどしかいなかったのですから、それで良しです。 さて、ここから江戸城から離れ、日本橋を目指してラストスパートです。 永代通りを東京駅方向へ向かいます。この通り沿いは松平、細川などのお偉い方々のお屋敷町でした。大手町に「伝奏屋敷」があり、朝廷派遣の勅使の出張宿泊所がありました。伝奏屋敷は赤穂事件発端の舞台でもあります。 着きました!あらゆる街道の基点となる「日本橋」です。 甲州街道ももちろんここが出発点になります。 日本橋の街道起点の説明文です。本によると橋名の文字は徳川慶喜筆ということです。 麒麟が見守る明治の日本橋。残念ながら、無粋な昭和人が高速道路の屋根を作ってしまったので、いまはとても窮屈そうです。令和の間に、この邪魔な屋根はなくなるそうです。 にほんばし、ひらがなで書くと江戸風情が出ます。そういう様々な姿を持つ日本語、大好きです。 今日はここまで6kmだけど、じっくりと江戸の風を感じながら歩いた旅でした。次回は膝痛が治ってからの挑戦になると思います。高尾山から相模湖に向かう予定です。これまた山越えの厳しい予感です。 いいなと思ったら応援しよう! ご愛読いただきありがとうございます。 テーマごとにマガジンにまとめていますので、他の気になる記事も読んでいただければ幸いです。 チップで応援する #歴史 #司馬遼太郎 #甲州街道 #街道を歩く