明るい性教育と孫を期待する母の話

1994年生まれ。2024年の今年、30歳になる予定だ。
母は51歳。アラサーの娘に、孫を迫ってくる。
ただしそれは重苦しく孫を寄越せ、血筋を残せ、といったものではなく、「孫見たいな💫」といったような、流れ星来ないかなぐらいの軽さだ。
わたしは27歳で結婚している。人妻歴3年目。
子どもは?とも言いたくなるのだろう。
義母からの圧はもっと重厚なのだが、今回はわたしの母との関係を振り返りながら、わたしはなぜ、子どもを産みたくないのか検証していきたい。


ヴェルサイユ宮殿での出来事

高校時代、修学旅行でフランス・パリに行った。その中でもちろん、ヴェルサイユ宮殿にも行った。ここで一つ謝っておきたい。もしかしたらルーヴル美術館での出来事かもしれないが、なにせ10年前の出来事だ。記憶が多少混濁していることは許してほしい。
とにかく、わたしはヴェルサイユだかルーヴルだかで、ガイドのおじさんに案内されながら絵画を見た。世界史と美術が大好きであったので、それはもう大興奮だ。とある母子像の前に来たとき、ガイドのおじさんと目が合った。彼はわたしに聞いた。
「聖母の足元にいるこのふたりの男の子のうち、イエスはどっちだと思う?」
男の子のひとりは、聖母を見ていた。そしてもうひとりは、聖母を見る男の子を凝視していた。
わたしは直感的に、「こっち」と言って、凝視する男の子を指差した。
だってそれは、母親である聖母を見つめる男の子に、嫉妬の炎を燃やす息子に見えたのだ。
しかし、答えはどうやら違った。おじさんは、「そっかー、実はこっちなんだよね」といって、ガイドを続けた。わたしにはにわかに信じがたかった。だって、この男の子の顔。この子の母親でないならば、どうしてこんなに凝視しているのだ。わたしはあの絵の解釈に、いまだ納得がいっていない。

湊かなえの『母性』

知人に勧められ、湊かなえの『母性』を観た。原作も読もうと思っている。まずは手っ取り早く映画を見たのだが、とても気に入ってしまった。すぐに母に共有したかった。母は言った。「火事になったら、間違いなくわたしを助けるんだろうね」
こんなシーンがあるのだ。主人公は夫が不在のある晩、火事に遭う。別室では母と娘が眠っていたが、ドアが塞がっていて主人公は部屋に入れない。母は孫を庇い、娘である主人公に、自分ではなく孫を助けるように説得する。主人公は叫ぶ。「お母さん!!!」と。娘のことなど眼中にないのだ。
わたしの母には、わたしが“娘に向いている“女であることが、お見通しであった。
もう一つ印象的なシーンがある。
ショッピングモールで、夫、娘、主人公の順に手を繋いで並んで歩いている。なんてことない親子の日常だ。
日が変わって、同じ道を、母、孫、主人公が手を繋いで歩いている。主人公は娘の手を離し、母と孫の間に割って入り、母と手を繋ぐ。娘のことなど眼中になく、むしろ退けろと言いたげに押し退ける。
ああ、これだ。わたしは、10年前にヴェルサイユだかルーヴルで見た既視感を、理解した。聖母(母)を見つめる男の子(孫)。その男の子(孫)を見つめる男の子(主人公/わたし)。
母の愛が孫に注がれようものなら、わたしは嫉妬に狂ってしまうかもしれない。

14歳で知る母の妊娠

わたしが14歳だったか、13歳だったか。15歳だったかもしれない。母が妊娠したとわたしに告げた。当時母はまだ34〜36歳。初産でもないし、産めない年齢でもなかった。
「弟が欲しいって言ってたでしょ」母は言った。
何年前の話だ。わたしが4歳の時に、言ったかもしれない。あの時母は、「ママ1人じゃ弟はできないの」と言っていた。わたしたちはすでに母子家庭であった。幼いながらに、『ああ、男の人が必要なんだな』とわかっていた。
しかし14歳。わたしは拒絶した。相手の男はわかっている。
5歳の時、わたしは母に再婚を勧めた。裕福で、優しくて、色が白くて、顔の作りもわたしに似ていた。親子といっても差し障りがないと、恐るべきことに理解していた。この人と結婚すれば生活が楽になるし、弟もできると、理解していたのだ。
しかし母は、再婚しなかった。理由はいくらでもある。それはまあいい。20歳を超えて大人になったいまでは、その選択に感謝している。
それが、なぜ、いま(14歳)。当時わたしは絶望していた。同時期に、中学校の担任から呼び出され、奨学金の説明を受けていた。
「お前は大学に行け」「テストの点数が、お前の将来の給料だ」
担任である老婆はそういって、わたしに書類を握らせた。「いやだ」と突き返すことは、出来なかった。
いま(14歳)弟が生まれたら。わたしは高校に行けないかもしれない。
生活の支えである祖父だって、もう定年を迎える。もし生まれたら、年金は弟に吸い取られてしまう。そうしたら、わたしはテストの点数が収入ではなくなる。学歴がなくなる。
どうしても東京に行きたかった。「東京に行くためには、大学に行かなくては。遊びに行くだけなんて、なんの意味もないの」と嘆いていたのは、母自身だあったのに…!

子どもが欲しかった21歳

大学生。東京の、大学生になった。21歳のとき、子どもがほしくてほしくて仕方なかった。この頃からわたしの口癖は「聖母になりたい」だった。まだ大学3年生。ゼミが始まり、大学時代の最盛期と言ってもいい。
それでも母親になりたかったのは、母親がわたしを産んだ歳だからだ。とはいいつつも、わたしはコンドームをつけずに行為に及んだことはない。
いや、白状する。一度だけある。怖くなってすぐ抜いてもらい、コンドームをつけて行為に至った。
翌朝、彼氏のベッドで目覚め、恐怖に全身が包まれていた。寝ぼけながら呼び止める彼氏を置いて、わたしはいそいそと自分の家に帰った。丸の内線の中で怖くて震えていた。最寄駅に着くなり、産婦人科に駆け込んだ。待合室の妊婦たちは、恐怖の象徴だった。突き出たお腹。幸せにつつまれ、たまごクラブだかひよこクラブを読んでいる。緊急避妊薬を処方されるだけで、地獄の空間で何時間も待たされていたように思う。診察室に入ると、男性の医者が薬の説明をした。わたしは、全くの上の空だった。
翌日のバイトは、子宮が痛くて、吐き気がして、立っていられなかった。当時のバイト統括は話のわかる女性で、昨日産婦人科に行ったこと、薬をもらったこと、吐き気がするという事情を少し話すと、融通を聞かせてくれたことを覚えている。
あの恐怖の体験一度きり、コンドームをつけなかったことはない。

アラサーの人妻

結婚3年目。今年で30歳。インスタグラムは、赤子の写真で溢れかえっている。わたしはそれを、他人事として眺めている。現実感がない。犬や猫の写真を見ると、笑みが溢れているようで、夫に「またネコチャン❣️て鳴いてるよ」と揶揄われている。
人間の赤子は、わたしを“娘“ではなくする決定的な爆弾なのだ。その爆弾は、精子によって作られる。わたしにとって、この世で最も恐ろしい兵器だ。
結婚するまでのわたしは、周囲の女友達や同姓の知人に尻軽だと思われていたように思う。しかしわたしにはルールがあった。
①絶対にコンドームをつける。つけない男とはやらずに帰る。
②生理の1クールに挿入するのは1人まで。血が流れたのを確認してから次の男に行く。
これだけだが、絶対厳守した。もし子どもができようものなら、出本ははっきりさせなければいけないと考えていた。
我が家は「明るい性教育」の名の下に、母親から一通りのことを教わった。洗い方、生理のことから始まり、娘が聞きたがろうがなんだろうが、性行為まで、母は包み隠さず教えてくれた。
「初めてはベッドの上で、絶対にゴムをつけて」と、小学5年生の頃から、何度も何度も聞かされた。
娘はそれを忠実に守ってきたし、守っている。夫と行為に及ぶ際も、つけなかったことはない。
夫はきっと、知っている。「聖母になりたい」と嘯く妻が、「母になりたい」など微塵も思っていないことに。
彼は、近い将来芝犬と黒猫を両脇に抱えることを夢見ている。彼もまた、自分の子どもというものに興味を示していない。


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