誰かに誉められる人生はやめよう

Netflixで『下妻物語』を観た。2005年にも観たのだが、土屋アンナがヴェルサーチ好きの不良で、深田恭子がロココの精神だということしか覚えていなかった。

内容は、冷めたロリィタと、熱い不良の友情話だ。桃子には桃子のルールがあって、絶対王政最頂期のフランスに憧れて生きている。彼女は言う、甘いお菓子だけ食べていたい。

学校内での桃子は、すごく浮いていた。みんなが机を寄せあって食べるなか、お弁当はひとりで食べている。友だちもいなそうだし、イチゴにも冷めた態度で接している。イチゴに友だちだと言われ、桃子はその場でキャベツを買って渡し、「これがきょうからあなたの友だち」と告げた。わたし自身もわりと冷めた子どもだったが、桃子の徹底ぶりには感心した。

(ここから自分語り)

わたしは周囲から浮いた子どもだった。友だちはいた。放課後も毎日のように遊びに出掛けていた。でも心のなかでは、みんな仮初の友人だった。小学校に入る前から、同い年の子よりも頭ひとつ大きかった。物覚えがよく、テストの点数も高かった。身体が大きいから、人よりも運動ができた。そしてなにより、すべては仮初だと思っていた。誰かに命令されてなにかをすることが嫌いで、ひとりでふらりとどこかに行ってしまうことが多かった。運動会の閉会式では、列から抜け出して校庭の隅でありに石灰石の粉をかけて遊んでいたし、親戚の結婚式に連れていかれれば、探検と称してどこまでもうろうろと歩き回っていた。しかしそんな行動ばかりしていると、変な子だと思われていることに気がついた。誰かに命令されるのもいやだが、他人にとやかく言われるのもいやだった。そうしてわたしは幼いながらに、「周囲はどうするんだろう」「平均的な人はどうするんだろう」と考えるようになっていた。

かといってテストの点数は高く、運動神経もよいままだ。おまけに負けず嫌いで、自分よりもできるやつもきらいだった。そうなると、先生たちは勝手に"エリートコース"を提示してくる。義務教育を終えたら進学校に進学し、大学に行くのだ。我が家は大学に行ったものがいなかった。母は高校中退だし、父の学歴に至ってはまったく知らない。高校に行っていたかさえ怪しい。おじも似たようなものだったし、とにかく我が家は社会不適合者の巣窟だった。

当時のわたしはその年齢にしては理解力のある子どもだったので、どうすれば自分が"適合"できるかは知っていた。周囲に合わせて"普通の子ども"を演じることが難しいのなら、大人に"誉められる子ども"になるほうが容易い。学校の勉強なんてゲームと同じだし、本能的に動いていれば、学校でやるスポーツなんて余裕だった。ひとよりも成長が早いだけなのだから。小学6年生が、小学1年生の中に混じり、お前は小学1年生だといわれている気分だった。

わたしは神童でも天才でもなかった。小学5年生のとき、友だちと大喧嘩した。何が原因だったかは覚えていない。しかし、「天才じゃなくしてやる!」と言われたことは覚えている。まったく意味がわからなかった。先生たちはわたしをできる子だと評価する。たいして努力をしているように見えないわたしは、子どもの世界では常に羨望と嫉妬の対象だった。その頃には、「周囲に合わせる」よりも、「大人たちの期待に添える」ことを優先していた。わたしができる子だとして、その発言をした友人にできることはなんなのだろう。テストは自分ひとりの力で解くものだ。わたしの学力はわたし以外がどうすることもできないのに、あの子にいったい何ができると言うのか。当時、わたしは「はぁ、」としか答えることができなかった。

周囲とのギャップを感じながらわたしは、先生の望み通り進学校に進んだ。高校時代は勉強漬けの毎日だった。入学してすぐに、全国統一模試を受けた。全国にわたしよりも頭のいいやつはいくらでもいることは知っていた。わたしは"他より成長がちょっと早いだけ"で、並外れた天才ではないことは、自分がよくわかっていた。目の届く範囲に自分よりできるやつがいると、負けたくないのが性だった。中学時代は成績上位で、小学生時代からのライバルの男の子に負けたり勝ったりしながら、女子では常に一位だった。そんな自分が、その模試では校内15位だった。その日は淡々と時間を過ごし、夜になって、悔し涙で泣いた。それまでは、喧嘩をして負けたら泣いていた。夜中に布団を抜け出し、わたしは対策会議を開いた。BBCのポッドキャストをウォークマンにいれ、通学時にエンドレスリピートをする。チラシ裏の適当な紙を、余白がいっさいなくなるまでびっちりと文字で埋めた。その日学習したことのアウトプットだ。とにかく誰かに負けていることが嫌で、いちばんじゃなきゃいやだった。

学生時代は、テストの時間がいちばん好きだった。自分の能力が点数でわかりやすく開示される。授業なんかやめて、毎時間テストでもいいとすら思っていた。勉強なんて、家で自分でできるじゃないかと。

大人になると、そうはいかない。社会人は、評価がとてもわかりづらい。その評価は給与、上司からの期待、そういったものに現れるが、純粋ながんばりだけではどうにもできないことが多い。給与は年齢や継続年数に応じて相対的なものだし、期待値は数字として提示されない。目に見えてわかりやすい評価がなにもない。

わたしは結局、『港区の商社』という肩書きを引っ提げて職に就いたにすぎない。案の定、大人たちは誉めてくれる。地方の田舎から出た小娘が『港区』『商社』に勤める、それだけで、特に祖母は鼻高々だった。田舎というものは、本当に狭いコミュニティだ。どこそこの○○ちゃんが東京の大学に進学した、○○さんちの○○ちゃんが九州に嫁に行ってしまった。どこから聞いたかわからないが、そんな話で持ちきりだ。わたしについても例外ではなく、どこに住んでどこに勤めているのか、母はスーパーで聞かれたらしい。わたしの高校時代の1個下の後輩の、その母親に聞かれたらしい。「そんな子知らないだが?」と母に返すと、その母親もわたしの母の中学の後輩だったらしい。どうでもいい他人じゃないか、と辟易するが、そんな薄っぺらい繋がりが大事らしい。

話がだいぶとっ散らかってきたが、"大人"と呼ばれるようになって数年経ち、自分というものがわからなくなった。毎日会社に行き、やりたくもない仕事をこなし、ときどき実家に帰れば、会社の所在地とその響きだけで、わーきゃーと誉めそやされる。大人になってわたしはようやく気づいたのだ。『誉められることにいったいなんの価値があるの?』と。

振り返ってみればわたしは、小学生時代は美大に行きたいと思っていた。しかし"テストの点数が高い"というだけで、大学に行かないのはもったいないことだと、担任から刷り込まれた。中学生時代のわたしは、高校に行ったらロリィタ服を着たいと思っていた。しかし実際は勉強漬けで、ロリィタ服を買うためのバイトもできず、母の趣味全開の、DQNな洋服を着ていた。

大学生になってわたしは、意識高く振る舞っていた。たぶん、おとなに誉められる言動が、身に染み付いていたんだと思う。しかし大学というところは、多様な人間の集まりだった。偏差値は、あくまでひとつの評価軸に過ぎない。割合として正確にどのくらいいるのかわからないが、真面目に誉められるためにがんばっているやつなんてわたしの周りにはいなかった。みんな、"好きなこと"、"やりたいこと"があった。勉強しかなかったわたしには、趣味もやりたいこともなにもなかった。


いま、わたしは絶賛ニートを極めている。傍から見れば、寄生虫かもしれない。人間、働かなくてもやることは多い。料理をしたり、筋トレをしたり、本を読んだり、映画を観たり。だが最近、なんのために生きているのかはよくわからなかった。楽しいことだけしたい、甘いものだけ食べていたい。そんな桃子の台詞が、ロココの精神が、わたしの心を揺さぶった。やりたいことにたどり着くために、気になるものには片っ端から手を出す。うろうろと冒険に歩きだすのが、結局性に合っているのかもしれない。

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