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リロ&スティッチの感想

今年の初めにリリースされた、ディズニーミュージックパレードというリズムゲームをプレイしている。ディズニーのいくつかの作品のテーマ曲、映画挿入曲がパレード風にアレンジされている。小さい頃の私は、ディズニープリンセスにまったくと言っていいほど興味を示さず、ピクサー作品ばかり観ていた。

”教養とはなにか”を考えていた大学生の時に、同じく疎遠だったジブリ作品と共に、ディズニープリンセスの映画を鑑賞した。誰もが知る名作は、観ておくべきだろうと考えたのだ。しかし、リロ&スティッチはこの分類から漏れており、観たことがなかった。

冒頭のゲームでは、主人公のリロが、同年代の女の子たちとフラダンスを踊るシーンが出てくる。リロの隣で踊る金髪の女の子は、リロの親友で、自由奔放なリロに翻弄されているのではないか。それが、リロ&スティッチをまったく観たことがない私の予想だった。

わたしが小学校低学年の時に、リロ&スティッチは公開された。当時の仲良しの女の子ふたりと、お揃いの缶ペンケースを買ったのを覚えている。塗装は赤のようなピンクで、リロとスティッチと、ハワイっぽいものが印刷されていた。えんぴつや色ペンもお揃いで買ったような気がする。9歳前後の女の子にとって、たとえ知らない作品でも、仲良しのお友達と同じものを持つということは、とても大事なことだったのだ。

そんなことを思い出し、私はディズニー+でリロ&スティッチを観た。リロの親友だと思っていた女の子はマートルという名で、親友どころか、ライバルのような、ジャイアンのような存在だった。リロはのび太君だ。ドラえもんと同じく青いスティッチは、ジャイアンを負かす道具をくれるどころか、余計にリロを孤立させる、凶悪なエイリアンだった。

自分の予想はまるであてにならないなと思いつつ、物語は進行する。リロの姉のナニは、おそらく高校生ぐらいだろうか。ナニだって母親に反抗したい年頃かもしれないのに、リロの母親代わりとして生計を立てながら育児も行っている。しかし、働きながら小さな女の子を育てるのは、想像しただけで大変だ。当然、社会福祉課のコワモテのおじさん、コブラが、リロを引き取りにやってくる。

リロはフラダンススクールの友達から仲間外れにされがちだ。この年頃の女の子というのは、とにかくお揃い・みんなと同じがだいじで、そうではないものを煙たがる傾向にあるとおもう。多様性を受け入れられるのはナニぐらいの歳か、それ以上になってからだろう。

一方でスティッチも、銀河連邦内で共生できない存在として、島流しに遇ってしまう。そして地球でリロと出会い、彼女の新しい家族・犬として迎え入れられる。ところがスティッチは、本能に埋め込まれた破壊衝動で、リロを翻弄する。その破壊衝動は自制がきかず、リロとナニは、スティッチに翻弄され、ナニの職場も、家族として共に過ごす時間も失うこのになってしまう。リロとスティッチは似た者同士なのだが、リロもスティッチにはお手上げだった。

スティッチが醜いアヒルの子の絵本を片手に、自ら家を出ていくシーンは、破壊マシーンスティッチにも、家族が欲しいという感情が芽生えた感動的なシーンだと思う。リロはそんなスティッチを見つめ、ここにいてもいいんだよ。離れていても、あなたはオハナ(家族)よ。というような言葉をかける。いまでいえばAI搭載の、コントロール不能な破壊マシーンであるスティッチ。しかし翌朝、そんなスティッチを産み出したジャンバ自身がスティッチを見つけ出し、お前にそんなもの(家族)はいないという。

経緯はすっ飛ばすが、最終的にナニ、リロ、スティッチ、そしてジャンバ、プリ―クリーは、”オハナ(家族)”になる。ふたりぼっちのナニとリロ、ひとりぼっちのスティッチが、自分たちの意志で家族になった。コブラが過去に、エイリアンとどんな戦いを繰り広げたのか気になるところであるが、リロたちは銀河連邦、そして社会福祉課(兼FBI?)のコブラ公認のもと、ともに暮らすこととなった。

そしてわたしは見事にリロ&スティッチにハマってしまい、2も観ることとなる(続く)。

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