「書く」という行為は、なんとあさましいものであろうか。
夕暮れ、瞬く間に夜。
毎日が走馬灯のように瞬間に過ぎてゆく。
子どもの頃は、早く大人にならないかなあと思っていた。
時間が過ぎるのがとても遅く感じられ、行動力の欠片も備わっていなかったかつての私にとっては、ほとんど拷問を受けているかのように感じられた。
今になって、あれは安寧の時間だったのだ、と気づき、ため息が漏れる。
思い出すのは、不思議とよい思い出ばかりである。夏休みの日に感じた、あの時間が無限に引き延ばされたかのような感覚、照り付ける太陽、自分に広がる無限の可能性への恍惚ー。
私の子ども時代はほとんど地獄のようなものであったと自認していたが、私の脳は心地の良い思い出だけを、ちょうど引き出しやすい棚にきちんとしまってくれていたらしい。私にとって忌避すべき思い出たちは、おそらく押し入れの奥深く、光の当たらない場所にすし詰めになってうめき声をあげている。私は時々、それらが醸し出す鼻が曲がってしまいそうな悪臭を嗅ぎつけ、思わず卒倒してしまいそうになる。
しかし、逃げてはならない。その吐き気を催す暗黒物質そのものが、私の歴史そのものであるから、目を背けてはならない。
こう書くと、なんだかものすごい過去が私にはあるのだと読者諸賢に錯覚させそうだが、そんなものはないのだ。虐待を受け親戚をたらい回しにされてきたとか、戦争に単騎向かわされたとか、そんな劇的なエピソード等一つとしてない。あるのは、誰にでもありそうなありふれた恥辱の体験だったり、自己が勝手に作り出した理想の自分への劣等感 ーつまり現実の自己否認ーを徹底的にこじらせているフリーターが独りいるばかりである。
そうだ、その暗黒物質は、よく見てみれば自分の外形を示している。どちらかというと、それのほうがより自分らしい形をしているのかもしれない。悲しいことに、今の私はただの形骸である。なんとなく社会に適応してしまった人間の薄汚さを、鏡を見るたびに感じるのである。今では、鏡の自分を見るより、心の中の自分の方になんだか親しみを感じている。
「書く」ということは、自分の心の奥深くの部分との対話のようなものだと思っている。「書く」とき、私は読者に向かって話しかけているように装うが、その実まったくそんなことはなく、ただ私はエンエンと私と私との独り相撲の様子を書き記しているのである。そして、こんな文を書いて、泣きたくなってくるだの頭が痛いなどをのたまうのである。なんと愚かであろうか!そして翌日になると、けろりとした顔でまた「書き」始めるのである。
「書く」時、私はなるべく自分の喜ぶ題材を探して書く。自分の芯を探り当てたいがためにものを書いている。よりよく生きるためには、どうしても書かなければならないのである。なぜなら私は人といると遠慮して自分の意見など出せはしないし、かといって自分の脳内で思考を完結させられるほど思慮深くない。だからこうやって、寝言をnoteにさらして、泰然としているのである。
それでも、そんな私でも、やはり記事を読んでスキをもらうと飛び上がるほど嬉しいし、モチベーションになる。あの心理学で有名な、エサを求めてボタンを押し続ける空腹のネズミのように、私はスキを求める。だが、スキを目標にものを書いているのではないのだと自分になんとか言い聞かせ、「書く」あさましい私を確認し続けるために、日々無味乾燥な世界でキーボードをたたき続けている。
ここでサルトルの名言を一つ。
われわれの惨めなことを慰めてくれる唯一のものは、気を紛らわせることである。しかしこれこそわれわれの惨めさの最大の物である。(『パンセ』サルトル著)
至言である。だが、こうやって偉人の言葉に酔い、「書く」という行為に気を紛らわせる私のあさましさは、今日もとどまることを知らない。
そして今日も東の空には明けの明星が輝いている。
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