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【映画評】バトルロワイヤルII <荒唐無稽ながら切り捨てることも難しい左派的戦争ファンタジー>



 「中学生が殺し合いをする」というショッキングな設定でセンセーションを巻き起こした「バトルロワイヤル」。私も原作を中学生のとき友人に借りて貪るように読んだのを覚えています。自分が撃たれる夢まで見たほどで、小説家になろうかとペンをとったほどなのです(読みやすい小説で、これぐらい自分で書けるのでは?と思ったのでした)。
 映画はⅠのほうは見ていたのですが、続編のⅡは見ていなかったのでアマプラのおすすめに出てきたのをきっかけにで見ることに。結論から言うと、明らかに荒唐無稽で駄作なのだが、突き抜けた狂気が妙に清々しさを放っている作品。駄作、と否定して今うのもやや惜しいという感想を持ちました(ただ、今人に勧めるかと言われれば勧めない)。あとは左派的な思想色が強く、反米色が剝き出し。本作が公開された2003年は世界貿易センター同時多発テロ、アメリカによるアフガン侵攻から2年で、世界がアメリカの単独行動主義(ユニラリズム)に疑問を投げかけていた頃。その時代感覚を知っていないと、少し唐突で突き放されてしまうかもしれません。
 ただ、本エントリーでかなりこき下ろすものの、一刀両断に駄作と切り捨てることも難しい味わいがあるとも感じられる作品。今はもう死に絶えかけている抵抗のメッセージは、20年の時を経て、我々に訴えかけるものもある。そういう意味では骨太なメッセージの込められた作品か。
 

あらすじ

 まず、あらすじに簡単に触れましょう。前回の殺し合い「バトルロワイヤル」から脱出し、生き延びた七原秋也(藤原竜也)は、自分たちに殺し合いをさせた日本政府に復讐するため、テロ組織「ワイルドセブン」を組織する。そして、都庁へのテロを実行し世界の「大人たち」へ宣戦布告する(この「大人たち」は日本政府のみならず「強いもの」、具体的には大国であるアメリカなどを含んでいる)。日本政府は、新世紀テロ対策特別法<BRⅡ>を成立させた。BRⅡはランダムに中学生のクラスを選出し、ワイルドセブンと戦わせるための法案だった。こうして、中学生たちと、ワイルドセブンの「戦争」が始まった。

設定のちぐはぐさとリアリティのなさ

 この作品を駄作たらしめているのは、その設定のリアリティの無さであろう。特に、無理やり旧作のバトロワの枠組みを今回も持ち込もうとしているので、明らかな無理がでてしまい、興ざめなのである。
 一番興ざめなのは、明らかにワイルドセブンを殲滅するつもりがないことである。そもそも、まったく訓練を積んでいない生徒を送り込む時点で「???」だし(これは映画の展開上仕方ないと言えば仕方ないのだが)、上陸作戦は複数地点から上陸させるのではなく一地点から、夜間ではなく日の出後(一応未明っぽいがw)と、「虐殺してください」と言わなんばかりの上陸作戦なのである。戦闘シーンのセットはかなりお金がかかっていて迫力もあるので、より一層設定のクソさが際立ってしまっている。もっと言うと、終盤、自衛隊も追加で上陸してくるのだが、砲撃の支援なしwいや、生徒は見殺しにするとしても自衛隊をそんなにやすやすと殺してはいかんだろうw そのくせ最後はアメリカが島へミサイルが飛んでくるのであるwww「最初からそれをやれ」感がすごいのである。ワイルドセブンというカラシニコフとロケランぐらいしかもっていないテロリスト集団に、明らかに戦闘力を合わせている日本政府、優しすぎである。 
 そのあたりは不問にするとしても、看過できない設定もある。まず、生徒の首輪に着けられた爆弾の設定。首輪に爆弾がつけられる設定は前作から引き継いだものだが、今回は男女一組がペアになっており、ペアの片方が死ぬと、もう片方の首輪も爆発するという謎仕様なのである。命を軽く見すぎだろそれは!ひどいのは、上陸前のシーンである。ある男子が良心的理由でゲームへの参加を拒否し首輪が爆発して死ぬのだが、なんとこの男子が死んだあとで、ペア爆弾ルールの説明がされるのだ!「説明を忘れていましたが~」っておいおいおい、そのルール知ってたらみんなでその男子を強制的に参加させただろ!案の定、ペアの女の子は首輪が爆発して死ぬことになる。このバトロワという世界の狂気を表現していると割り切れる観客はどのくらいるのだろう。真面目に考えてはいけない映画なのである。

未明?夕暮れ?に上陸作戦が結構され、生徒たちはハチの巣に。

 ほかにも、前作同様、生徒にはナップザック一つが与えられて、その中に武器が入っているのだが、前回同様、ハズレ武器があったりする(トイレットペーパー?)。ただ、この設定は今回はなくてもよかったのではないか?前作では異なる武器が与えられることで各自が生き残るゲーム性が出ることと、人生の不条理、今風に言うと「ガチャ」が表現されているのだが、今回その設定は蛇足に思える。案の定この設定によって展開が面白くなることは全くない。このように、設定のちぐはぐさは、かなりのものがある。だからこの作品は「ファンタジー」としてみる必要がある。ワイルドセブンを殲滅するミッションを与えられつつ、このゲームは生徒が犠牲になるのを楽しむ狂ったゲームなのである。 そもそもこの前作のバトロワ=生徒に殺し合いをさせる、ということ自体がリアリティがない物語では、という人もいるかもしれないが、この点は前作のバトロワは一定のリアリティを持っていたと私は思っている。当時はキレる17歳といった生徒が教師を殺してしまう事件が起きたり、「子供に対する恐怖」みたいなものが報道されていた時代だった。そんな中で、子供たちに恐怖を与えるために、BR法ができ、生徒がランダムに殺し合いをさせられるという仕組みができる。社会の秩序のために選ばれた生徒が犠牲になる、という設定は、なんとなく理解できるものだった。これも「そんなの社会的抑止になるのか」と突っ込まれてしまうかもしれないが、そういう時代感を見事に抉り出した作品だったと思うのである。小説バトルロワイヤルは、死んでいく生徒一人ひとりのエピソードや心情がきちんと描かれていて、青春ドラマとしても成り立っていた(ただし映画では時間の制約上そこは表現できていない)。

ビートたけし必要か?

 前作の延長でビートたけしが出てくるのも余計に感じた。「すれ違う親子」的なものを描きたかったのだろうが、であれば、もう少しフォーカスを当ててしっかり描くべきだったのではないかと思う。
 前作も、映画では一人ひとりの内面の描写がほとんどなく、今回もその辺はさっぱりしている。スタイルなのかもしれないが、感情移入しにくい作品だなという感じがする。

最後はギャグとハッピーエンド

終盤、七原たちの前に教師の竹内がラガーマンの姿で現れる。まったくもって意味不明である。このとき「そうかこの映画はファンタジーだったのか」と気づかされるのである。笑わせようとしているとしか思えないのだが、いや、一方でこのシーンからは彼が教師としてありたかった姿が表現されていたのかもしれない。彼は理想の教師の姿で、自爆して死んだと解釈すべきか。

 自衛隊を投入するも、ワイルドセブンを殲滅できなかったため、最後はしびれを切らしたアメリカが、ミサイルを撃ち込んで、戦闘は終了する。しかし、七原たちは無事脱出し、再びアフガニスタンに渡り、そこで映画は終わる。竹内のラガーマン姿からのアメリカによる空爆による強制終了、そしてあの空爆にもかかわらずみんな生きているというハッピーエンドで、アフガンの美しい景色をみながら支離滅裂なストーリーなんてどうでもいいほどすがすがしく本作品は終わる。

理解しがたい映画もありかもしれない

 いまレビューを書きながら、「実はこの作品実は面白かったのでは?」と思い直しつつある。明らかに支離滅裂、荒唐無稽なのだが、雑に散りばめられたメッセージをもう一度見返してもいいのかな、と少し思い始めている。
 理解されやすいこと、単純化されたものが受け入れられやすい昨今においては、貴重な「良い作品」だったのかもしれない。
 同時多発テロから20年たった今、中東情勢は一層の混迷を極めている。もう日本では反米という言葉もほぼ聞かなくなってしまったように思うし。反米はすなわち親中であるかのような、単純化された世界になってしまっているように思う。この映画は、明らかに反米を、左派的連帯と、抵抗を肯定している。それは必ずしも私たちが武器を取ることではないが、今を生きることを通じて、世界平和に対して、できることはないのかと問うてみてもよいのかもしれない。私は、何かこの映画からバトンを受け取ったのかもしれない。



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