比べられないなら興味を持たない
ふと話していて気づいたこと
そしてそれによって思い出された話
そこで導かれた結論
そんな話を本日はいたします。
お雑煮の話
昼下がり。
何気に雑煮の話を家人とする。
「味噌仕立ての濁ったスープの雑煮あるんだ」
「あんの入った餅を入れるお雑煮があるんだ」
「そうそう、佐渡島では正月に雑煮を食べないらしい」
「なんで正月に雑煮食べるんだろ」
たわいもない会話。
そう、この時期になると決まってネット界隈でもお雑煮談義が出現するし、テレビやラジオでもお雑煮のあれこれを話題にする。
お決まりのパターン。
これが盛り上がるのは、雑煮というものが御当地性が非常に高いコンテンツだから。
だから自らの固定観念が覆されることが楽しかったりする。
単一民族かつ狭い国土にあって、地域性が高いトピックなので、帰省を経ての再会というシチュエーションである、まさに今の時期にホットな話題。
それは理解できる。
ただ私自身、このお雑煮の話題、正直軽〜いキモチで聴き流している。
なぜだろう。
炊飯器の話
その理由に思い至る前に脳内で自動的にリンクしたのが炊飯器についてのエピソード。
以前、高機能の炊飯器を購入したい動機から、家電量販店を巡ったことがある。
各社、各グレードで様々なウリを掲げている。
たとえば
ふっくら、もっちりといった食感
味
釜の素材
などなど
それらの情報を比較して「どれにしよう」と悩む。
そして店員さんに話を伺う。
しかし実際な、
肝心な炊き立てのご飯を食べられることはない。
だから基本、活字から連想されるイメージから決めるしかない。
たとえどうにかある機種を購入したとしても、
最終選考まで残っていた気になっていた機種で炊いたご飯を食べられるという経験はそうそう出来ないままに終わる。
もしもそれが叶うとしたら、よほど近しいところがその機種を所有していて、かつ食べさせてもらえる環境があれば、だ。
一度、量販店で3機種ほどだっただろうか、それぞれの炊飯器で炊いたご飯が、小ぶりの寿司一貫サイズほどでそれぞれラップに包まれ、それを試食できる試みがなされていた。
もちろん今のような感染がどうだという時代の前の頃だ。
しかし、このラップに包まれたご飯は全て常温で、時間が経過したもの。
それはそれで、あるシチュエーションとしての比較検証は出来るのだが、『炊き立て』の比較とはならない。
これが出来ればいうことないのだが。
しかしここには大きな障壁もある。
例えば米の種類、精米からの時間経過などにこだわり、ご飯に並々ならぬ想いを抱くものにとってはこの比較検証は簡単には行かない。
私は余り高性能の差違を分別出来る味覚センサーを持ち合わせていないのだが、家人は鋭敏なるセンサーを駆使してご飯を堪能する。
とはいえ結局、『えい、やっ』で購入するしかないのだ。
再び、雑煮の話
再び雑煮の話に戻る。
そう、雑煮はなかなか家庭以外で食べることが少ない。
お店でお金を払えば興味ある地域の雑煮が食べられるのならば実際食べてみたい気もする。
しかしそれは難しい。
というかそのような機会に恵まれたことがない。
結婚などによって、その地域のある種プライベートに近い領域に入り込まないと他地域の雑煮を拝める機会はそうそうない。
さらに今の時期だから食べてみたいという衝動も起これど、これが季節が過ぎ、時が経っても、たとえば夏に『雑煮食べたい熱』が持続されているか、
いや、私にはそこまでの情熱はないのかもしれない。
そう、とどのつまり興味をもったとしても、その雑煮は食べられないのである。
もちろんレシピを手に入れて作ることも出来るのだが、それはやはり本場のそのものの味である確証は得難い。
食べた気分になれるかもしれないが、
やはり、その地域の当人が食べてるクオリティを食べたいのである。
それが叶わないから
興味を持つことをあきらめたのだ。
そう、長年のこのやり場のない虚しさを感じて来た想いが徐々に形成していったのが、
『よその雑煮に興味を持たない』
という認識フィルターである。
おしまい