YOUは何しに北朝鮮へ #3 オールナイト・ピョンヤンと単色の街
生まれ育った街に帰るのは年に数回なのだが帰る度に違和感を覚える。竹山を切り開いたニュータウンの一角にぼくの家はあり、一戸建ての家が並ぶ。一斉に開発され徐々に分譲されていったこのニュータウンには色がない。没個性の空間が広がる。住民はほぼ団塊ジュニア世代のサラリーマンでその一生を賭けた夢の結晶が並び、個性を求めるならそれぞれの家のかたちや表札に求めることになる。
車がないと不便な地域ではあるが、石を投げればトヨタ自動車の関係者にあたるので圧倒的にトヨタ車のユーザーが多く、名前しか知らない元同級生を名乗る人物が新卒でトヨタのディーラーに入ると、急に親し気に「〇君とは同級生でして」と両親に近づいて来てトヨタ車を買うよう執拗に勧めて来る困った街でもある。
なお、帰省した時に両親から「こんな子が車売りに来たよ」と見せられた元同級生の名刺は破って捨てました。
つまり生活一色。ベットタウンということば通りの場所。ここに行けば盛り場。この裏通りは危ない。もっと具体的に言うならぱちんこ屋や風俗店のような生活を崩す要素は徹底的に排除されている。
専門的なことばを使うなら第一種低層住居専用地域だったのかも知れない。竹山の上のニュータウンで、徹底的に生活に特化した場所でぼくは育った。むしろ生活しかなかった。まるで無菌室のような世界。年に一回くらい人権教育と題して、学校で部落差別に関する講演や授業があったが正直違和感があった。少なくともぼくのほとんど行動範囲においては、生活一色で部落だの在日コリアンの住むエリアだの、他の色が存在する余地など全くなく許されるものではなかったからだ。感想文を書くように求められたが、感想も何も「差別はよくない」のような無難な感想文しか書けることはなかった。
竹山から下り旧市街に出れば東海道の宿場町で朝銀(朝銀信用組合)もあった。駅から10数分電車に乗れば朝鮮学校もある。それなりに在日コリアンはいたと思うのだが接近遭遇はなかった。同世代で同じ地域に生まれ育った在日コリアンの方と近年偶然出会い、話したことがあるが、旧市街にいくつか固まって在日コリアンの方が住んだエリアもあったが今はないという。
高校生になったある朝。同級生Tが声をかけてきた。「昨日のオールナイトニッポン聴いたか」と。平壌放送を聴いていたぼくは答えた。「聴いてねえ。こっちはオールナイトピョンヤンだ」と。Tは大笑いし「おまえはやっぱりどこか変だのう」とため息混じりに返し「うるせーばかやろー」とぼくは返した。部活にも行かずろくにも勉強もせず、向田邦子さんの影響で「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を聴いていたのが16歳のぼく。そこに青春はなくまさに暗渠のような世界にいた。無菌室のような自宅周辺と、暗渠のような学校生活。北上へのマグマはたまる一方だった。
このやりとり。今ならもっとおかしな流れになっていただろう。ピョンヤン、という地名は即、北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国へと繋がり、さらにぼくの醸し出す”変”さを別の方向に膨らませていったはずだ。あるいはヘイトスピーチだ!と敏感に捉える向きもあるかも知れない。Tの名誉のためにいうなら、Tが変と断じたのはぼくがことばもわかりもしない、よくわからない国の外国の放送をしたり顔で聴く(しかも勉強しながら)という行為についてであり、そこにヘイトスピーチも北朝鮮への差別も何もない。1990年代前半。少なくともぼくの周りにおいて北朝鮮はマイナーな存在だった。ノドンもテポドンもまだなく、核実験ももちろんなく、拉致事件は明るみにならず、そもそも話題にすらのぼる存在ではなかった。
北朝鮮は受験勉強の対象ですらなかったのだ。
■ 北のHow to その26
ここに出て来る在日コリアンの方は、同じ街で生まれ育ち高校は愛知の朝鮮学校に行ったそうです。サッカー部の朝練があるので朝は始発電車に揺られていったのだとか。朝鮮学校あるあるなのですが、全国的に数が少ないので通学時間数時間はざら。始発電車で通学もざら。地域によっては中学生のころから寄宿舎という人もいます。自転車通学のぼくには、信じられない環境です。
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