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誇りと冷静と躊躇と油断#6 ソウルのハルモニたちと、北からの運命の矢

 ソウルを最後に訪れたのはもう10年近く前の話になる。コロナの件は別として、時間の面でもお金の面でも行けないことはないのだが、これだけ北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国に渡航して、朝鮮総聯の機関紙朝鮮新報に寄稿していると、韓国の国家情報院に拘束されないか心配になって来るのだ。少なくとも夫婦では行けない。家族には迷惑をかけられない。

 李明博政権や朴槿恵政権の時代ならともかく、今の政権(文在寅)なら大丈夫でしょと朝鮮総聯の関係者も言うが、異国の地で政治犯、思想犯となるのは勘弁願いたい。大学路の小劇場で嫌になるくらい劇を見て、お気に入りの喫茶店「학림=學林」でブラームスの交響曲を聴きながらコーヒーを飲み、観劇の余韻に浸る休日を過ごしたいのだが、躊躇しているうちに10年近く経ってしまった。

 その時ぼくはソウルで何をしていたかというと、久しぶりに臨津閣を訪れていた。韓国人が訪れることが出来る北朝鮮に最も近い場所のひとつ。あゝ、やっぱり北上を止められない。

 ここはひとりで行くに限る。わいわいと友だちとおしゃべりしながら行く場所ではない。静かにひとり追憶と共にコツコツ、靴の音を響かせ寂しくそぞろ歩くに限るのだ。なぜソウルからこれだけ近いのに、ここまで寂寥感と緊張感に溢れた風景が目の前に広がっているのか。その意味を考えながらひたすら歩くのだ。

 そこでぼくは北朝鮮が掘った南侵トンネルを見るツアーに参加し、そのツアーに同行した若い韓国人女性と夫婦と間違われ、ふたりで同時に「いやいや!違いますから!」「いくらなんでもそれは彼女に失礼でしょ!」と返した。名前も連絡先も交換しないで別れたその女性と、翌日ソウルの中心部、光化門の教保文庫の真ん前でばったり再会した。ふたりで「もしかして、昨日の人?」「うそでしょ!」と指さし合った。息をのむような瞬間とは、あの時のことを言うのだろう。街がひとつの舞台とぼくは感じた。その舞台ではまさに韓流ドラマみたいなベタベタな演出が、それを韓国の神様は好むようだ。

 ふたりでコーヒーを飲んだ。その女性の名前が金ジョンウン。金正恩委員長と同じ音。同姓同名。ジョンウンさんは「あり得ないよね。しかもわたし、女よ」と別の意味で北朝鮮に失笑していたけれど、ぼくは笑いながら震えていた。北から飛んできた矢は、正確にぼくの胸を射抜いていた。昼下がりのソウルの喫茶店で、呆然としながら「おまえがどこにいようとも、もう離さない」という声をぼくは確かに聞いた。韓国の神様は本当にいたずら好きだ。たぶん北朝鮮の神様も同じだ。

 ジョンウンさんとツアーで会う前に、ぼくは臨津閣でハルモニ(おばあさん)に包囲されていた。当時70代後半から80代。日本語教育を受けた世代の彼女たちは目ざとくもぼくが日本人だということを見破ったのだ。

 ハイキングに来たというハルモニたちはともかく元気だった。背中のリュックの中には何でもあった。みかんにゆで卵にのり巻きにお菓子。「あ、ぼくも何か買ってきますよ」と立ち上がろうとすると「あなたはいいの。わざわざ日本から来たんだから」と引き留める。車座に座ると半ば記者会見の席みたいになる。4人のハルモニは「案外、日本語って覚えてるものだねぇ」と笑い合いながらずけずけと質問をしてくる。

「何年生まれだい」「結婚してるのか」「仕事は何してる」。あー、えーと出来損ないの官僚のようにひとりひとりに答えていくと「子どもは?」と聞かれる。すると1人のハルモニが毅然と「あんた!そんなこと聞くもんじゃないよ。日本からのお客さんに失礼でしょうが!」といった5秒後に「で、子どもは?」と聞いてくる。ボケなのか天然なのかわからない。「いないんです」と答えると「子どもは作っておいた方が…」「いや、それは夫婦の問題、生き方は人それぞれよ」といつまでもさざめかしかった。

 まるで学校の図書館に昔からある、文庫本の中に書かれているような日本語。どこか古めかしい、かび臭いにおいもするけど懐かしい発音のあけすけな日本語。ぼくはそれをソウルでしばらく聞いていないし、たぶんこれからもソウルで聞くことはもうほとんどない。

■ 北のHow to その53
 かつてオフレコの席では日韓両国の首脳は日本語で話していたと聞きます。北朝鮮の金日成主席が、流暢な日本語を話したエピソードを何かの本で読んだことがあります。日本語で話しかけて来る韓国人の老人が、なぜ日本語を流暢に話せるのかその歴史的背景を考えると、少し胸が苦しくなりますが、それを押しやってでも話すべきだと考えます。悲しい過去の歴史があるのなら、今上書きすればいい。相手の日本語に甘えながら。韓国と北朝鮮に関わる時にぼくはいつもそう思います。

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北岡 裕
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