幸せについての思考(1)
どんな人生なら幸せだろう、とよく考える。
これに対してブレない答えを持っている人はきっと幸せだろう。...と、ここまで書いて、いや、そうなのか?と自問する。そうじゃないかもしれない。自身の現実とかけ離れた誰かの人生に対して、強い憧れを抱いているとしたら、幸せを明確に知っていたとして、自身は幸せではないかもしれない。
幸せについて考える時、私は本当に面倒な人間だと思う。
日々の瞬間の集まりが人生であるとしたら、今すぐに生活を見直す必要があるかもしれないととにかく焦る日もあれば、人生こんなもんだろうと思う日もあって、それはそれは本当に忙しくて面倒だ。
ずっと、私は、何もかもうまくやれる人でありたいと思っている、多分。
働くからには、しっかりと評価されていたい。しかし、会社で評価されることは本当に価値のあることだろうか、とも思う。
生きるからには、様々な楽しみを誰かと分かち合いたい。これはきっと私に植えつけられている価値観みたいなもので、悔しいことに結婚しない未来はあまり想像できない。人のせいにするわけではないけれど、きっと家族のみんなも私に対してそれを望んでいるのは間違いない。
ではそれらをどう配分すれば、私は幸せだろうか。
ここでまた私の思考を複雑にするのが私の卒業論文だ。性別に関係なく働ける社会にするには、少なくとも女性が、家庭に貢献するに足る所得を得ることが必要であるという結論になった。はああああああ。
もっと柔軟だったはずの思考回路がどんどん凝り固まっていくのがよく分かる。今日だって、こんなに少しのことしか考えられないままである。
続く。
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