小説「とけい」プロローグ

⚠️この物語はフィクションです。

令和元年5月1日
世の中が新元号に沸く中、宮川拓也は自宅である四畳半の部屋で地団駄を踏んだ。その非力な体からは想像もできない響きに宮川自身も驚き尻餅をついた。元号が変わっただけで外は朝からどんちゃん騒ぎ、起きたくもない時間に起こされた宮川はより不機嫌になった。

起きたくもない時間に起こされたとはいえ、不思議なものだ体は食事を取れと言わんばかりに、何も用事がないのに暇だからという理由で何度も部屋に出入りしてくる鬱陶しい母親のように構って欲しそうに図々しい音で鳴った。自分の体ながら呆れる。よくそんな音が出たもんだ。

自律神経がおかしくなったのはちょうど去年の今頃だったような気がする。

嫌な記憶を振り払うように顔を洗いに洗面所に駆け込む。勢いよく蛇口をひねったせいで飛び散った水が顔にかかり、今住んでいる町が波に飲み込まれ宮川は溺れ得体の知れない深海生物に一飲みされる。一気に消化されて無になってしまう様な不快感が急激に押し寄せて来た。

二度目の腹の音を聞いて空腹を実感した宮川は食事をとるという本来の目的を思い出した。本当は家から出たくなかったが、残念ながら冷蔵庫にはこれといって食べられるようなものが無かった。早々と身支度を済ませ、近所のカフェに行くことにした。

到着したカフェ「ラフォーレ」は令和になって初日だというのに開店していた。店内は普段通りまばらに人が居た。宮川はカフェに来ると良く好んでアイスコーヒーを注文した。ホットコーヒーは熱いから猫舌の宮川には酷だった。

どうして人は席を隣合わず、間を開けたり離れたりして座るのだろうかと、答えが見つからない問いに自問自答を繰り返していると注文したアイスコーヒーのモーニングセットが目の前に置かれた。こうしていると時間が過ぎるのを早く感じることが出来る。店員のお姉さんは「平成が終わっちゃいましたね」とせっかく話しかけてきてくれたが、人と接するのが苦手な宮川は軽く会釈するだけが精一杯だった。運ばれてきたアイスコーヒーに視線を移しジッと見つめる。

深い吸い込まれそうな色をしている。このままジッと見つめていると、吸い込まれてどこか知らない世界に連れて行かれそうな気持ちになる。こんなことを考えてしまうのも心が人より少し弱いからだ。

カップを力強く握り宮川はアイスコーヒーを一気に飲んだ。口の中、そして喉まで広がる旨味と苦味を噛み締めた時、宮川は今日早く起きて良かったと思った。いや、実際には起こされたしここに来る前までは散々嫌味を言っていたが、アイスコーヒーは宮川を少しだけポジティブにする特別な飲み物だった。

学生時代の宮川は今よりももっと心が人より弱く、そして自分に自信がなかった。そんな宮川でも学生時代はいつもの自分より少しポジティブになれることがちゃんとあった。

もう一杯アイスコーヒーを飲んでから家に帰ろうかと悩んでいた宮川の耳に懐かしさを感じさせるBGMが聴こえてきた。

「ケセガンガンガンガンガンガンガンガンガーン!!オォーオォ!オォーオォ!」

毎年12月になると生放送される一夜で人生が変わるお笑い芸人の夢の舞台。その瞬間に流れるBGMを聞いた時、宮川の頭の中には大学時代所属していたいつもの自分が少しポジティブになれるお笑いサークルの、懐かしくそして楽しさの中に苦しさの入り混じった、一度は真剣に目指そうと本気で考えた日々もある懐かしい記憶が鮮明に思い出された。








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