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けいちゃんが、私に教えてくれたこと。

人生で忘れられない存在って、その後の縁があまり続いていない人の中にも数人いるような気がする。

かくいう私にも、一人忘れられない人がいる。人生20余年生きたうちの、半年くらいしか一緒じゃなかった。しかも記憶があいまいな小学校のとき。

なのに、どうしてだろう。ふとあの期間を思い出しては、今も何か大切なことを教えてもらっている気がするんだ。


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私は小学3年生から4年間、マーチングバンドに所属していた。地元の小学生が所属する、全体40人くらいの。

マーチングバンドは歩きながら楽器を演奏するもの、っていうと単純だけど、結構難しい。演奏しながらステージ上を縦横に動き、三角形や円など様々な隊形を作る。聴覚的・視覚的に音楽を表現していく。

特に私たちは、地元の集まりでありながら毎年関東大会で銀賞以上を獲得していて、全国大会にぎりぎり行けるか行けないかのチームだった。練習量は週3~4とそこそこあったし、上下関係に厳しく敬語も叩き込まれた。小学生ながら、あれは部活動レベルの密度だったと思う。


その最高学年になった年、私がリーダーを務めていたパーカッションパートに一人の子が入部してきた。

それが、けいちゃん。背は中くらいの男の子。

初日、楽器を叩いて「スゲー!」といちいち感動していたのを覚えている。新しい世界に触れて、キラキラした表情をしていて可愛らしかった。

けいちゃんは、強いていえば少し、変わっているところがあった。目が泳いでいて、じっとするのが苦手で、どこかおぼつかない。会話のキャッチボールも、だいたい半分くらい取りこぼしていそうな感じだった。


けいちゃんとの半年にわたる活動は、この時からスタートした。


けいちゃんはバスドラム担当になった。よくバンドのドラマーが足で叩いてる太鼓、あれを叩きながら背負って歩く係。

けどまずけいちゃんには、リズム感覚があんまりなかった。

四分音符が大丈夫でも、楽譜には八分音符から十六分音符まである。慣れるには、基礎練習からしっかり取り組む必要。だから、メトロノームに合わせて音のリズムを覚えてもらう練習を何度もした。

「タンタンタタン、はい!」
「タンタンタタン!」
「タカタカタンタン!」
「タカタカタンタン!」

マンツーマンで一つひとつ丁寧に音をたどっていくと、できた。そのときは二人で喜びあうけど、次の日になると振り出しに戻っていたり、他の楽器と音を合わせるとつられて狂ってしまうことがよくあった。

失敗するたび、またメトロノームでリズムを復習。同時期に入った後輩たちがどんどん成長していく中、自分たちだけ1の目しか出ないサイコロですごろくをやっているようで、私はもどかしく感じていた。


その次にぶつかった壁は、美しく正確に立って歩くこと。

マーチングでは、5mを8歩で歩く感覚をベースに、決まった歩数で決まったポジションへいくことと、歩くフォームの美しさが求められる。前に歩くときはかかとからしっかり踏むこと、横やうしろに動くときはつま先立ちでなるべく膝を曲げないことなど。

けいちゃんは普段、かかとが浮きがちなつま先歩きをしていた。だからまずは、立つ姿勢から練習。

「かかとを地面につけて、膝をピンと伸ばして、立ってみて」
「はい!」
「・・・あー動いちゃった。その姿勢のままキープして!」
「はい!」

安定して立てるようになったら、5m8歩の歩幅感覚を覚えるまで、基礎練習をなんども繰り返していく。


そこからも、やるべきことはたくさんあった。美しく歩くこと、リズムに合わせて足を出すこと、自分のポジションを覚えて動くこと、そしてそれをこなしながら、約6kgあるバスドラムを背負って叩くこと。

大会に間に合うだろうか、ちゃんと形にできるだろうか。半年間の道のりがとても遠く険しいものに思えて、私は当初、ひとりでとても焦ってた。

私にとっては、挑戦できる最後の年。私がいた期間は関東大会で銀賞どまりだったから、全国大会まで行きたい気持ちが強かった。願いを込めてみんなで千羽鶴を折ったし、慣れない手でお守りを縫ったりもした。

だから、なかなかコツを掴めないけいちゃんを見て、余裕がなくてつい怒っちゃったり、強くぶつかっちゃたりすることもあった。


けどけいちゃんは、決して逃げたり折れたりしなかった。

時間が空いた時は「タンタンタタン」と小さくリズムを呟いていた彼。タンタン言うことに熱が入って割と息切れしがちだったりして。

自分の立ち姿を確認して「これで合ってますか?」と細かく確認してくる彼。「できてるよ!」って言ったときのガッツポーズが全力だったりして。

自主練習を呼びかけたとき、サボりがちな子はたくさんいたけど、けいちゃんはほとんど毎回来てくれていた。

けいちゃんは、精一杯頑張っていた。まだまだできないこともあったけど、近くにいるとそれがよくわかった。

だから、私もだんだん苛立ちやもどかしさを感じなくなって、一緒に頑張ろうって、素直に向き合えるようになった。


関東大会が迫ったある日、けいちゃんは合宿帰りの車の中で、ぽつんと呟いた。

「れいなちゃん、もし僕のせいで全国に行けなかったら、ごめんね。」

なんて返していいか、一瞬わからなかった。だってもう、そんなこと微塵も思っていなかったから。

「もし全国に行けなかったとしても、それは絶対にけいちゃんのせいじゃないよ。大丈夫、頑張った分きっとうまくいくよ。」

きっと、私の声は少し震えていたと思う。けいちゃんはどんな気持ちでこう言ってくれたのだろう。それを考えれば考えるほど、いままで彼がどう彼自身に向き合って練習してきたのかを、感じた気がした。


そして迎えた、関東大会。

この瞬間のために半年間練習してきたのに、出番は味わう間もなく始まって終わった。練習の成果を出しきれずに、講評を聞く前から泣いていた子もいた。

結果、私たちは銀賞で、全国大会には行けなかった。

悔しかった。みんなで泣いた。けいちゃんも泣いていた。けど私も声をかける余裕もないほど泣いていた。


数ヶ月後、私たちの演技がDVDになって届いたとき、まず私はそれをみて自分の目を疑った。

けいちゃんは、最初の立ち位置を間違えてしまっていた。いつもより5mも後方にスタンバイして、演技に臨んでいた。

確かに大会会場は、普段見慣れた練習環境より広い。みんなとの距離感も遠く感じる上に、緊張で平常心にはなかなかなれないから、そういうミスが出てもおかしくなかったかもしれない。私は事前にそれを想定しきれなかったことを悔いた。


だけど、それよりも驚いたことがあった。けいちゃんが、そんなミスなんてなかったかのように、ちゃんと次のポジションに正確にたどり着いていたことだった。

歩数は決まっているから、5mも違うと一歩一歩の幅が相当狂うはずだ。もちろん、そんな練習は一度もしたことがない。

けれど彼はやってのけた。しかも、演技のあとその話は出なかったから、たぶん、無意識で。

一回見ただけじゃ全然信じられなくて、演技冒頭のシーンをなんども繰り返した。けどどう見てもちゃんと、形になっていた。

奇跡が起きた。そう思った。

けいちゃんのこれまでの努力を思い出して、とても誇らしく感じた。


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あれからもう、10年以上が経つ。

大人になってからふと、彼のことを思い出して、親に聞いてしまった。そっか、彼は多動症というやつだったのか。

けどそれを聞いても、私の中でのけいちゃんの印象は全く変わらない。努力家で、謙虚で、素直で、周りを笑顔にしてくれる愛らしいムードメーカー。

もし多動症のことを知ってて接していたら、私の中で何か変わっていたのだろうか。

それは今もうわからないけど、私は彼に、そんなの関係ないかもしれないよってことを、半年間もかけて教わっていたのかもしれない。


あのとき以来、けいちゃんには会ってない。もうフルネームもはっきり思い出せないし、今どんな顔でどこで何をしているのか、全く知らないけど。

当時”けいちゃん”と呼んでいた彼のことを、私はなかなか忘れられない。

今もどこかで、元気に過ごしてくれているなら、嬉しいな、と思う。

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