4世紀
今日も中学 歴史。
ちょっと遡って3世紀。
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国と卑弥呼。
女王卑弥呼は、中国である魏に使者を出した。そして親魏倭王の称号を得た。
有名な金印、漢倭奴国王印。倭の国にある小国の奴国の王、卑弥呼。
魏志倭人伝には記されているけど、卑弥呼の没年は247年だそうで、卑弥呼の邪馬台国とヤマト王権は同じ時期に存在していて、邪馬台国はヤマト王権が統一していく途中で統合された一地方の小国だったのか、邪馬台国がヤマト王権なのか、謎が多いですね。
古墳時代の4世紀、300年代です。
この頃は文字がなかったようです。話はしてても字に残すことをしてなかったということですね。
日本最古の書物が日本書紀と古事記、8世紀完成ですから仕方ないですよね。
だからこの頃の朝鮮半島の百済の王子が天皇に送った七支刀銘文と
高句麗の好太王碑文に記されている箇所があるようです。
それぐらいの情報しかない時代、謎めいてますね。
でも、この頃の高句麗、百済、任那の三国時代だった朝鮮半島。
百済と同盟していた日本は、高句麗と戦った、日本書紀にも神功皇后が朝鮮半島に出兵した記載があり、400年にはヤマト王権も負けたとはいえ、国内で統一王権として基盤を整えていたようです。
でなければ、国内をほったらかしに、国外へ出兵しないですよねー。
562年まで任那にヤマト王権は拠点を持っていたというのです。
だって、前方後円墳が13基も朝鮮半島に確認されたんですから。
少なくとも日本の、ヤマト王権の影響が、朝鮮半島に、この頃与えていたことになります。
てことは、400年までには、ヤマト王権は国内の小国と同盟や豪族との婚姻関係を結んで統一王権として基盤を固め、朝鮮半島のような国外へ目を向けられるように、その基盤は整えていた。だから、前方後円墳のような巨大な事業もできた。
この墳墓にお眠りになっているのが、天皇家。
神武天皇の橿原宮での詔勅、八絋為宇という我が国の建国の理念、
日本列島の人々が、あたかも一軒の家に暮らすように仲良く暮らすこと。
すげ〜な〜、橿原宮で初めて大王、天皇として治めて、国民が仲良く暮らすことが建国の理念か。
その理念を持った国民の一部が、朝鮮半島でもその気持ちを持っていったってことかな。
こんな気持ちになれりゃ〜なー、争うことも少ないだろうに。
今日も平和な歴史の日でした。