つぐなうデザイン1 / Ecological Reparation / マリア・プイグ・デ・ラ・ベラカーサほか
再出発の話が好きだ。薬物中毒から持ち直した華原朋美など、そんな話に、なぜかどうしても目がいってしまう。本書は(だいぶ違うが)そんな希望のつまった話であり、同時にデザインの姿勢を考えさせられる本だ。
中心となって編纂しているのは、STS研究者であるディミトリス・パパドプロスとマリア・プイグ・デ・ラ・ベラカーサの2人。「傷ついた生態系」と「社会の不均衡」を同時に回復させようとするコミュニティプロジェクトを集めた論考集だ。Youtubeのビデオシリーズもある。
本書でキー概念となるのが「モア・ザン・ソーシャル・ムーヴメント」だ。同じくSTS研究者のジェルフィとパパドプロス曰く、既存の権力や制度に抵抗したり変化を要求する「これまで」の運動の目的と比べて、「これから」の運動は日常生活におけるコミュニティ創造のための実践を目的とする。
そして彼らが力説するのは、そのコミュニティが代替する柔軟なインフラストラクチャの重要性である。権力や制度が覆されても、自分たちで貸借・共有・複製・再生できるネットワークだ。さらに、そこに大事なのは、多種を含むマルチステークホルダー的な視点であると語る。
本書で取り上げられるプロジェクトも、そんな関係性を抱え、背後にある歴史や政治を乗り越えながら、一歩前進していくような輝きに満ちている。
うーん、ちょっと難しい…。例えば、パート1に登場する事例をみると分かりやすいかもしれない。
舞台はエルサルバドル。人文地理学者のナオミ・ミルナーが追うのは、現地の農民たちが、劣化した土壌を再生するためにパーマカルチャーや先住民の知恵、先端技術を組み合わせた代替農法のプロジェクトだ。この土地には、植民地時代の殺戮や暴力の歴史といったトラウマが存在している。
つまり、凄惨な記憶が眠る土壌を生態学的に再生するとともに、実験的な農法から得られる経験や知識を脱植民地的なパワーに変換する両義的な意味をこめた試みなのである。
牧草地、廃棄物処理場、微生物、災害の記憶、精神病棟、テキスタイルクラフト、都市景観… いろんな事例を読む中で、自分がプロジェクトをつくるときに心がけておきたいなと思うヒントがいくつかあったので抜粋しておこうと思う。気分は、新しく前進し続けるデザインじゃなく、1歩下がって2歩進むような反省を込めたデザインだ。
コントロールしきらずに。ときには食われながら、ときには翻弄されながら、という力関係で
まず最初は、STS研究者のクレア・ウォータートンによる「Reflections on a Mending Ecology through Pastures for Life」だ。「パスチャー・フォー・ライフ」と名乗るイギリスの農家へのインタビューをもとに、彼らの実験的なモブ放牧をさぐり、農家と牛の関係性をじわじわと変化させていく様子を追いかける。この方法で作られる肉や乳は、100%グラスフェッドのこと。
刺激的なのは、農家が、農場に元来ある生態系を編み直して、新たな生態系を悩みながら作り、働く、という点だ。
イギリスでは高収量で栄養価の高いロリウム・ペレンネという牧草に、窒素固定用のシロツメクサを混ぜて播種・施肥するのが、1950年代から定番となっていた。しかし、ロリウムが肥料を大量に消費し、土壌が数年たつと再播種せねばならないケースも多く、その方法を疑ったのだ。彼らは、1つの畑に一年以上放牧する「セットストック」と呼ばれる方法ではなく、複数の畑に一定時間ずつ放牧する「モブ放牧」と呼ばれる方法を用いるようになった。
この方法を取れば、経済性とは相反する。しかし彼らはそれを覚悟の上で、規模の経済の現実のオルタナティブを探る。それは、農場の生態系の負荷とともに、農業の背景にある不公平なシステムや金融への抵抗でもあるのだ。
小さなパドックごとに、踏み固められた草を40日から100日ほど休ませてから、再びそのパドックに牛を入れる… そんな「通常よりも長い回復期間を設けた短時間・高密度放牧」を続ける中で農家にどんどんと変化が起こる。
農場をコントロールする対象ではなく、時間をかけて(時には思ったようにいかないような)持ちつ持たれつな関係性によって、農家と牛と農場の間に連帯と創造性が生まれていく。オランダの人類学者キャロリーナが描く、ペルー北部の川を巡る自警団と灌漑システムの民族誌「Caring for water in Northern Peru」では、その言葉をReciprocity(互恵関係)と呼ぶ。時には食われるのである。
でも考えてみれば、それが自然な気もするのだ。
演じても、その物語に確からしさは得られない。でも、演じた存在への情動を得ることはできる
続いては、ウガンダの携帯電話修理業者の研究でもお馴染みのSTS研究者ララ・ヒューストンらによる「Algorithmic Food Justice」だ。都市の食料生態系で、アルゴリズミック(ここでは主にブロックチェーンの技術)な想像力がどのように寄与しうるかを検証した、連続ワークショップのプロジェクトである。本書では異色な、デザインのアプローチである。
ブロックチェーンは、分散型台帳技術であり、各メンバーにトークンを発行できること、「スマートコントラクト」の使用を通じて組織のルールを自動化できることを彼女らは特長として挙げている。そして、2つのアートプロジェクト<terra0>と<Zoöp>に影響を受けていると語る。
テーマは、2020年に起こった架空の大食糧危機から5年後の2025年に、様々な立場を演じながら、食をめぐる都市デザインのあり方を探索すること。LARP(Live Art Action Research Role Playing)(Catlow、2017)として知られるアートベースのリサーチ手法を用いて、アーティストや研究者など約20名が参加した。
ユニークだったのは、このワークショップが「失敗した」と書かれていることである。LARPもプロトタイピングも期待した拡張性や一貫性のある物語を生み出すことはなかった、と書かれ、どうやら、人間以上の種の言葉を代弁する難しさがあることや、委員会制度のような舞台設定に人間社会のルールが混じってしまうことが原因だったと語る。しかし、反面こう続ける。
ポジティブだ。正直、自分としてもこの手のワークショップの経験はあるが、ここだけの話、どうも妄想っぽく、リアリティが薄くてしゃらくさく感じてしまう(ごめん)。掃除してた方が良いのではと思ったりする。ただ、即興で例えばミツバチのような存在に憑依し、情動を得る経験が始まりである、というところには共感する。それは確かにLARPならではかもしれない。
というのも、例えばボトムアップの行為が重要だし好きだと自分では思っているが、それだけでは先は見通せない。だから、未来を考えるトップダウンの行為も必要で、その場合に「当事者のレンズ」を覗くヒントとして、こんなLARPのような行為から始めてみるのも悪くないなと思った。これは、ストラテジック・デザイナーのダン・ヒルの言葉とも重なる気がする。
ブラックボックスに敏感になる。つくることで、それを開いていく
最後に取り上げるのは、科学哲学者のアリストテレス・ティンパスが書く「Technological Black Boxing versus Ecological Reparation: From Encased-Industrial to Open-Renewable Wind Energy」だ。イギリスのScoraigコミュニティでスクラップ材などを利用して建設された小型風力発電機の歴史を追いながら、クローズド型ではなく、オープン型の風力発電機の重要性を説く。
冒頭で登場する、T.リンゼイ・ベイカーの写真が最高である。この写真集は、風力ポンプを使って水を入れたタンクで行われた洗礼式から、大勢の人が集まった結婚式まで、風車とそれが隣接する(あるいはすぐ後ろにある)農場の家の前でポーズを取る人々が写っている。
そこから続く彼の論考で最も重要なのは「ブラックボックス」の概念だ。彼のフィールドワーク先であるコミュニティでは、小型風力発電機のレシピが共有されている。しかし、それと対比させる形で、産業用風力タービンのブラックボックス化を嘆くのである。
ブレードを除けば、ほぼすべてが遮蔽され(多くの風車の塔を含めて)、多くの電子機器を収納するのと同じようなステンレスの陰に物理的に隠されている。その表象とは別に、3つのブラックボックスがある。
1つめは、この隠れた機構に、ネットワークを通じて、化石燃料発電所と産業用風力発電所の電気を混ぜ、時には原子力発電所の電気も含めることができる混在のシステムが組み込まれていること(ギリシャ・アテネを例示)。
2つめは、送電網と多数のフィードバック機構(「スマートグリッド」)は決して自動的なことではなく、バランスを保ち機能させるために、熟練の技が必要であること。 つまり隠蔽されるのは、社会的労働である。
3つめは、私たちに対して、風という「環境にやさしいエネルギー源」「再生可能エネルギー源」を提示され、その裏の「長距離伝送網」による環境への負荷は隠蔽されることである。つまり、イメージの隠蔽である。
このブラックボックスをひらく、というのは個人的にとても関心がある。ただ露呈させる、というよりも、自分のアプローチは「つくる」を介在させ、自分の身体や生活に感覚を取り戻しながら社会に開いていく方向である。シチズンサイエンスやファブラボのような。
そういう意味では、先日つくった、太陽光のみで動く、オフグリッドウェブサイトにも近い。これをつくることで、エネルギーをめぐる、都市・自然・科学技術の関係性を再考したいという思いを込めている。(X(Twitter)もぜひフォローしてもらえるとうれしい)
反省を織り込みながら、前に進むデザイン
タイトルのreparationがどうも聞き慣れず、語源を探ると、re-「再び」pair「準備する」-tion「こと、もの」。再び準備できるようになること【名】修復、補償、賠償 とあった。まじまじと見ると、ふんわり希望の香りがする言葉である。本書のIntroductionに書かれているこの文章が響く。
多摩美の教授でもある、人類学者の中村寛さんが書かれた、デザイン人類学への姿勢のメッセージを置いて、この記事を締めくくりたい。つまりは、これがEcological Reparationということなのかなと思う。