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修理と労働 / Repair matters / V.グラツィアーノほか

分厚い「修理」の特集だ。

修理にまつわる労働、資本主義経済下での修理の価値、マテリアルと流通の再考、非物質世界との関係、という修理を俯瞰する4つの視点から、12の論考がまとめられている。編集したのは、文化理論家のV.グラツィアーノと都市研究家K.トローガル。

彼女らは、行き過ぎた新自由主義へのカウンターとして修理を探求したい、と語る。この論考集の目的は、修理の概念や姿、身振りを通して、人間が作った事柄、道具、物体との網目のような関係を、政治的な問いとして語る方法を再考するため。

集まるところには政治が生まれ、そこには修復と維持が発生し、そこで不均衡が起こる。いくつかポイントを絞って書いてみたいと思う。

(彼女らは、そんな修理事象に目を向けるための、Pirate Care という教育コレクティブも共催している。トピックはトランスハックフェミニズム、海上救助、著作権侵害と幅広い。あとクラゲかわいい)

修理「労働」の再考はトランジションの一手なるか

EMFのThe butterfly diagramに代表されるように、循環経済に修理が重要な位置とされてもなお、未だ修理労働は不安定で自由な次元に依存し、それに伴ってジェンダーや人種主義なども付随している。

昨年、京都・福知山で開催された展覧会「余の光/Light of My World」で、脳にこびりついたのが、シップ・リサイクルと呼ばれる巨船の解体映像だ。パキスタンの映像作家Hira Nabiは、その劣悪な環境で働く人たちを描く。これを見ると、イメージがつきやすい。(ジャクソンのRethinking Repairにも同テーマでバーティンスキーの写真が登場する)

しかし、都市であれ修理労働は地位を得ているとは言えない。後述するリペアカフェのような場所でも、不均衡は起きている。著者は、この修理労働に疑問を投げかける。

修理のための無報酬労働が、ボランティア、訓練、リハビリテーション(失業者のワークフェア制度や労働許可のない亡命者など)として評価されてしまっている点であり、これは労働倫理と目立つ消費という代謝の速い苦境を中心に組織された社会の問題の根源に疑問を投げかけるものである。

それは私たち個人の問題にもつながる。例えば、欧州などで始まっている「修理する権利」は、廃棄や所有の個人的思想を表すことにもなる。何かを修理するか、捨てるかの決断は、私たちが生産する余剰価値をどのように再投資するかについて「誰が決定権を持つか」という視点を表出させる。この意味で、その選択は政治的な側面を帯びていく。

修理労働は誰が何のために行うのか。修理労働は移行する持続可能な社会においてどう位置づけられるのか。著者はこうつけ加える。

衰退、エントロピー、破壊という現実の中で、「修理」は能力であり、行動か受動か、「投資」か「無視」かについての重層的でオープンエンドな決断の問題である。

コミュニティリペアのグレーゾーン

V.シュミットの論考は、ドイツ・シュトゥットガルトでiFixitのメンバーが運営する、オープンワークショップスペースの調査だ。リペアカフェも定期開催されている。(現在リペアカフェは世界で2503箇所、日本国内に5箇所)

興味深いのはコミュニティリペアの描写だ。「リペアカフェの参加者は、修理することそのものではなく、修理された品物にしか興味がないことが多い」とあり、「専門家によるボランティアも、時間的なプレッシャーから説明のない修理という最も手取り早い方法を選んでしまう」と書かれる。

また、LEDランプRelumityは自己修理ができるように設計されているが、修理は技術専門家の指導が必要で、法的免責事項が必要である。しかし、このコミュニティリペアでは責任のグレーゾーンで活動し、非公式な関係性によって部分的に緩和されている実態もある。

ここで記されるコミュニティでは、社会経済的背景の異なる個人やグループを統合する働きはあるものの、ジェンダーやエスニシティを超えた包括性は低い、とシュミットは語る。また、修理の現場は往々にして変動が少なく(新旧の)閉鎖を生み出す。

もちろん、ソーシャルキャピタルの構築など、参加者のメリットはたくさんある。ユニークだったのは、リペアコミュニティでは、廃棄物、成長、充足についての会話が定期的に耳に入ってくる、という点だ。シュミットはこうまとめる。

修理の実践は、ローカルな集合体の構築を支援し、排除された他者に対してコミュニティを開き、「共有すること」を政治化するのである。近くて遠い他者との関係を変えることで、修理は場所を超えた共同体を再構成する。同時に、修理に関連する実践は、新旧の排除と同一化の境界線を作り出す。

ファイトレメディエーションで庭を治す

次に取り上げるのはフードリペア。食品廃棄を前景化したときの諸問題を取り上げるのは、STS研究者のS.アブラハムソンだ。

M.ベラカーサやA.モルを随所に引く。Mattersへの関心からケアへ。そのケアの実践的解釈として修理を位置づけるのだ。そして、それは個人の善意や態度、行動としてではなく、スキルや技術、モノを取り込んで試してみるプロセスや実践である、と主張する。

ここで登場するアーバンガーデンを巡る話がおもしろい。スウェーデン南部の都市で、パーマカルチャーコレクティブの「マイコリザ(Mykorrhiza)」は住民同士で管理する庭を始める。しかし、その庭は閉鎖。理由はその土壌サンプルから重金属(鉛、水銀、亜鉛、カドミウムなど)の値ことが判明したことからだ。

それに抗うため、汚染された土壌を除去するのではなく、金属を吸収する植物を植えるファイトレメディエーション(植物による環境修復)を行うことに決定。カドミウムと亜鉛を抽出するためにヤナギが使用されたのである。

これは、庭を管理する人たちが、この環境に愛着を取り戻し、食に対する感謝の気持ちを育めるか、と考えた結果である。都市における安全でクリーンな食料生産の前提条件を修理すると同時に、土への愛着や多種の関係を育むことに成功したと言えるだろう。M.ベラカーサの文脈とも通じる。

誰もがリペアメーカーになる世界

最後は工芸とリペアだ。修理アーティストのB.ハーヴェイは、修理する人のラベルの捉え直しを試みる。

彼女は、E.スペルマンの「Repair: The Impulse to Restore in a Fragile World」引き合いに出し、その中で修理する人が、創造者(creators)、破壊者(destroyers)、非干渉者(noninterferers)、交換者(replacers)、ブリコルア(bricoleurs)と5つ書かれていることを示す。その上でこう書く。

私は修理の第三の波における代理人活動家実践者としての「修理工」のアイデンティティーの可能性を示唆する。

彼女の言う「修理の第三の波」は難解で捉えきれないのだが、個人的に要約するとこうだ。第一波は資本主義以前の「モノを大切に(maintenance)」という家庭内での活動。第二波は資本主義への反抗による「DIYの意思表示(Activism)」という社会運動。第三波は持続可能な社会への移行における「不均衡の調整(Transition)」という未来志向的な態度である。(ただし、フォーカスはあくまで創作や工芸)

その第三の波で登場するアーキタイプが「リペアメーカー(修理する人)」と「リペアシーカー(修理を求める人)」である。この立場がベン図のように流動的に入れ替わることの重要性を説く。特に誰もがリペアメーカーになりうることに焦点を当て、その姿こそが、未来への態度を示している、と主張するのだ。最後に、修理という行為の動機と意味をこうまとめる。

破損した素材を破壊的な場所から創造的な場所へと導き、破損を利用して修理を政治的、反消費的な考察として位置づけ直し、ワークショップをコミュニティやアイデンティティ形成の場として示すことで、修理という工芸は提案型の実践となるのです。

設計と修理が曖昧になる?

ざっと、修理と労働の周縁を取り上げてみた。

現況は、未だに不当労働のような状況が存在していて、都市コミュニティでも奉仕活動の負の側面を抱え続けている。逆に、前述した庭師のように、修理する人がどう修理を行うかで、綻んだ多種との関係性を繋ぎ治せるような創造性も発揮できるし、リペアメーカーのようなラベルを定義することで、修理者の立場をエンパワメントすることもできうるかもしれない。

建築家ドイナ・ペトレスクが修理を「変質する実践」と呼んだように、元通りにするのではなく、再生産され、違った形に改変されていくようなフレキシブルな社会のありかたを修理という言葉は秘めている。

この変質を前提とすると、J.ドニやD.ポンティルが語る「修理やメンテナンスが設計と曖昧になる」という点とも繋がる。変異や変形がありふれたことであり、「設計」と「修理」が曖昧になる世界線、という思考はおもしろい…こうなるとデザインてなんだ?と思ってくる。

ということで、最後にツィンの言葉を引いた著者の言葉を置いておこう。

「不安定さが私たちの時代の条件」(Tsing, 2015: 20)であるとすれば、修理という作業は、その世界を繋ぎとめ、継続させるものの重要な一部である。


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