つぐなうデザイン3 / Care in Practice / アネマリー・モルほか
つぐなうデザイン2から続いて、最後は実践である。
精神科医・中井久夫の著書「家族の深淵」には、奇妙な話が登場する。
10年間眠れない女の子がいるというのだ。中井はその子が母親と住む家に往診に訪れ、やがてその澱んだ状況に気づく。優しく語りかけ、時計を隠し、指圧を行い、長い格闘の末に少女は眠る。実は不眠の原因は母親で、その奇怪な行動と中井は駆け引きしながら、なんとか安眠へと誘うのである。
この中井のような行為。これが、この記事で注目する「ティンカリング」である。直訳すれば「いじり」。鋳物を修理してまわった流しの修理屋(ティンカー)を語源に持つ言葉である。
科学技術社会学(STS)において、ティンカリングという言葉を多用するのはアネマリー・モルだ。彼女がSTSにケアを持ち込んだ金字塔「Care in Practice: On Tinkering in Clinics, Homes and Farms」を下敷きに、ケアとリペアの間を、または公共とメンテンナンスの間を繋ぐ、ティンカリングの可能性を読み解いてみよう。
STSにおけるティンカリング
ティンカリングは、スタートアップ、メイカームーヴメント、探求学習といった文脈でお馴染みだ。ただ、今回はSTS、つまり科学・技術・社会との関係における「いじり」という文脈に焦点を当てる。
最初に言ってしまうと、モルはこの書籍で、ケアの実践の一部として、ティンカリングを定義する。
2010年頃、STSにケアを持ち込んだのは、マリア・プイグ・デ・ラ・ベラカーサによる「Matters of Care in Technoscience: Assembling Neglected Things」と、アネマリー・モルによるこの「Care in Practice: On Tinkering in Clinics, Homes and Farms」と、2つの論考である。
前者はラトゥールのMatters of Concernとフェミニズムを背景に。後者は現場の積み重ねとプラクティスを背景に。大きな違いは政治性を孕んでいるかいないか、である。出所は違うが、 共通していたのは、ケアがSituated(状況的)でGeneral(普遍的)に捉えられない、ということだった。
つまり、変わり続ける状況に対して、呼応する責任を持つこと。そういった応答可能性 / response-ability(Haraway 2008)を纏うケアの実践の連続が、ティンカリングなのだ。
緊張に満ちた世界で、粘り強くじゃれあう
STSにおけるケアの倫理で下敷きにされるのは、ジョアン・C・トロントの有名な定義だろう。彼女の本にも応答(respond)の関連用語が頻出する。
ケアに満ちた民主主義を唱えた、政治学者トロントの、この定義は美しい。その定義の後に続けて、1.Caring about(関心を向けること)、2.Caring for(配慮すること)、3.Caregiving(ケアを提供すること)、4.Care-recieving(ケアを受け取ること)。そして、5.Caring with(ケアを共にすること)と、5つの局面が提案される。
分かる。が、きれいすぎないか。実際、トロント自身も「あまりにも広い定義」であると語っている。そして、もっと言うと違和感の大元は、ケアする/されるの間にある見えない力関係や、そこで発生する忍耐を伴う相互作用が見えにくいことだ。
この摩擦も伴うのが、ティンカリングだと思う。
冒頭のモルの本に書かれた、良いケアの実践を要約した一文が最もハマる。「粘り強く」という意思や態度が、やはり重要なのだ。ヒエラルキーを解体すること。食われることもありうること。緊張に満ちた世界で、粘り強くじゃれあうことなのだ。
小さないじりの物語でシステムをひっくり返す
モルの教え子で、灌漑や地下水をめぐる政治を研究する、人類学者キャロリーナ・ドミンゲス・グスマンも、この論文の中で、ティンカリングについて「有用な概念であり、地下水に関わる思考と実践を新たな方向へと押し進める」と前置きしながら、こう続ける。
彼女らは、水をめぐる現場の不安定さに着目し、実践に基づく水のガバナンスの研究・分析のための方法論的アプローチとして、ソシオテクニカル・ティンカリングという言葉を提唱している。これは計画や設計から逸脱したインフラと人間または水との相互作用のことを指す。
例えば、彼女らがジンバブエ南東部のとある村にいったときのこと。水路から自分たちの田畑へ引く灌漑ルールは決まっているはずなのに、とある少年は4倍ものサイフォンで水を勝手に引いていた。理由は作業を早く終わらせたいなどの単純な理由である。彼は、下流の農家が水不足になることをほぼ意識していない。悪意はないが、迷惑である。しかし、これが現実である。
つまり、こういった小さな「いじり」の物語を経験的に繋いでいくことで、トップダウン/コントロール型の水のガバナンス(制度や政治)から、権利や権力を転換し、主体と客体を再構成するための水のマネジメントを再検討する糸口とできるのだ、と主張する。
また、彼女らが「いじり」の能力に言及していることも見逃せない。創造的な「いじり」が評価や尊敬の対象になることはありえるだろうか。僕が社会に出て思うのは、目の前の事柄に対して、常に交渉、外交、妥協を伴いながら、粘り強く「いじり」続けられる能力は最強である。創造性の持久力だ。(個人調べ)
誰が、じゃなく、何によっていじりが生まれるか?
最後に取り上げるのは、同じくモルの教え子の人類学徒フェナ・スミッツの博論 Infrastructuring common worldsである。公衆衛生と環境保護のためのインフラに着目し、廃水処理の地域分散型のインフラ実験が行われるエリアをフィールドとする。
彼女が提起する問いにハッとした。それが以下だ。トロントをもじって、
この背景の1つには、オランダ国王の福祉国家から参加型社会への転換宣言がある。実際、市民は、地方分権によって、国家との関係を再構築するのではなく、インフラそのものへの配慮と再構成に関心を寄せるようになり、水道管の組み立て方やメンテの仕方、水道に潜むバクテリアの栄養補給の仕方などを学びたがった、つまり「いじり」たかったのである。以下は国王のメッセージだ。
2つめがアンコモンズ(Uncommons)である。人類学者マリオ・ブレーザーとマリソル・デ・ラ・カデナによる概念を引用し、世界をさまざまなコモンズが生まれる1つの場所として仮定するのではなく、異なる世界観が乖離(divergence)しながら折り合いをつけて繋ぎ止めている複数の場所であることを考慮するよう主張する。
つまり、もうコモンズが重要なことはわかっている。それを、誰が維持していくのかが重要なのもわかっている。問題は、何がそれを可能にするかだ。ルール、合図、朝の掃除、補修、そのための道具、データ。(彼女は「物事の組織化」と呼ぶが、具体例はほぼ示されていないのでもう少し掘りたい)
ある意味、その方法をデザインと呼べそうだ。いじり続けることが、実践を愛するデザインと親和性があるとすると、その方法を考え、実際にいじり続けることが、まさにデザインができる役目かもしれない。