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悪女と優柔不断の将軍が導く悲劇──裏切り渦巻く室町の長い夜
※「ChatGPT o1 Pro」の小説がスゴイという記事を読んで、歴史を学ぶのに良い小説が書けないかと思ってやってみた。
AIの書いた小説が普通に面白い ChatGPT「o1」驚きの文章力
https://ascii.jp/elem/000/004/246/4246165/
プロンプトは、
「下記の歴史のストーリーをベースに、本格的で中学生でも読めて、めちゃくちゃ面白い長編の小説を書いてください。全部で10章あって、それぞれが6000文字以上。必ずー回の出力で全て出力してください。
応仁の乱の簡単なストーリーをここに」
というもので、一発出しで作成。
悪女と優柔不断の将軍が導く悲劇──裏切り渦巻く室町の長い夜
【第一章 揺らぐ都の光】
室町時代の京の都は、華やかな美と背中合わせに暗い影をはらんでいた。雅と呼ばれる伝統文化が花開き、人々の暮らしには少しばかりの彩りがあったものの、一歩裏へ踏み込めば、貴族や武士同士の権力争い、次第に財力や発言力を増してきた豪商らの駆け引きなど、血の匂いをかぐような殺気を帯びた空気が漂っていたのである。
そんな京の中心に鎮座するのが、室町幕府の居館。八代将軍・足利義政は、幼少より「穏やかで優美な公達」と周囲に慕われてきた。だが、その優美さの裏には、優柔不断とも揶揄される気質があった。将軍位に就いてしばらくは、政治よりも和歌や絵画といった芸術を愛し、銀閣の造営や庭園の整備に意欲を示していた。義政のもとには、諸国から名のある画僧や学者が集い、京の文化をいっそう豊かに飾り立てていたのである。
しかし、美しい世界ばかりに没頭していられる状況ではなかった。義政は正室・日野富子との間に子を望んでいたが、なかなか恵まれず、重責たる「後継者問題」に神経をすり減らしていた。義政には弟の義視(よしみ)がいたため、一時はその義視を養子に迎え入れ、次の将軍職は義視に継がせる方向で話がまとまっていた。義政としては、将軍家が断絶してしまうよりは、血のつながった弟が継ぐほうがよい——それが当時の一般的な思考でもあった。
ところが、1465年(寛正6年)に事態は一変する。義政と富子の間に男児が誕生したのだ。これは幕府を支える者たちにとって、望みの光ともいえる慶事であった。新たに生まれた子は足利義尚(あしかが よしひさ)と名付けられ、義政は今までの苦悩が報われた思いで胸をなでおろした。
だが、この「慶事」が同時に幕府内部に大きな亀裂を走らせる。義政は「次の将軍は義尚」とあっさり宣言してしまったのである。それまで養子として迎えられ、「いずれは将軍職」とされてきた義視にとっては晴天の霹靂であった。しかも義政の性格ゆえなのか、どこか曖昧な態度で「義視も大切な存在だ」となだめるが、その言葉にはいっこうに力が感じられない。
義視は、義政が自分をぞんざいに扱ったとは感じながらも、当初はあくまで「義政の助けとなり、室町幕府を盤石にするのだ」という志を捨てずにいた。しかし、人間にはそれぞれの思惑があり、義視の周囲に集う武士や貴族たちは、勝手に焦燥感を募らせ始める。「このままでは義視様のお立場が危うい」「実子が生まれたのだから、あの方はもう養子など要らぬのではないか」……そんな囁きがこだまする。
そしてもうひとり、幕府内部で大きな影響力を持つ女性がいた。義政の正室・日野富子である。富子は、ついに得た我が子・義尚を何よりも大切に思い、その将来を盤石にしたいと強く願っていた。富子が本当に「悪女」だったのかどうか、後世の史料が乏しいゆえ定かではない。だが、富子が「我が子こそが次の将軍にふさわしい」と考えていたのはほぼ間違いないだろう。それに加えて、富子は政治や経済の才覚に恵まれた女性でもあった。実家の日野家は公家でありながら財力もあり、彼女自身も様々な寄付や融資を行うなどして「富子の懐」を肥やしていたとの噂もある。将軍家に嫁いだことで、さらにその権勢を拡大し得るチャンスを狙っていたとしても不思議ではない。
こうした「お世継ぎ問題」が表面化すると、周囲の大名や重臣たちもその立場を明確にしなければならなくなった。とりわけ、幕府を支える重鎮として畠山氏、斯波氏(しばし)、そして有力守護大名たちの動向は注目の的であった。義政が頼りなく、当時すでに山名宗全(やまな そうぜん)や細川勝元(ほそかわ かつもと)といった「事実上の実力者」たちが台頭していた時代。そこに、お世継ぎ争いの火種が撒かれていくこととなる。
美しい庭園と優雅な文化の花開く室町幕府という大舞台で、かくして一筋縄ではいかないドラマが幕を開ける。その中心にいる義政は芸術を愛する心優しき人物でありながら、同時に流されやすい、曖昧な将軍だった。そして周囲には野心と保身、時に純粋な忠義や正義を叫ぶ者たちがひしめいていた。そのすべての思惑が絡み合いながら、後に11年もの長きにわたる大乱へと繋がっていく――。
京の町の片隅、庶民たちはまだその“うねり”を肌で感じとるには至っていなかった。戦は遠い世界のもの。幕府や大名同士が何を争っているのか、庶民にとっては関係のない話。しかし、混沌の気配は少しずつ日常のすき間に忍び寄り、確実に京を飲み込もうとしていた。いずれ都中が、いや日本全国が、激動の時代へと突き落とされることを知る者はまだ少なかったのである。
そして、このときから二年後の1467年(応仁元年)に、後に「応仁の乱」と呼ばれる戦乱が勃発する。だが、そこに至るまでにも様々な伏線があった。畠山家や斯波家の内紛、山名宗全と細川勝元の対立……。一つの火種がくすぶっていたわけではない。四方八方から火の粉が舞い込み、義政の周囲はいつしか燃え盛る戦乱の炎に包まれていく。
これは、優美なる京を舞台にした長き戦乱、応仁の乱に翻弄される人々の物語である。無念や憤り、誇り高き意志と愛憎劇が交錯する中、生き抜こうとする武士たちと、それを見守る庶民たちの姿を描いていく――。
【第二章 くすぶる火種と寄り添う闇】
足利義視は幼少の頃より聡明であり、また武芸にも励んできた。兄である義政とは対照的に、ものごとをはっきりと割り切る性格で、いざという時に決断力を発揮する。その姿勢は、むしろ将軍の器としては優れていると見る者もいた。だからこそ、義政が後継者問題に悩んでいた頃には、幕府内外で「やがては義視様が継ぐことになるのだろう」という空気が醸成されていた。
しかし、突然現れた実子・義尚の存在によって、義視は「養子」の立場へと強引に戻される。将軍職は兄の直系の子が継ぐ——それが当たり前だという声が大勢を占めていく中、義視に忠誠を誓う家臣たちは浮足立つ。「義視様こそが次期将軍にふさわしい」「義政様はあまりにも優柔不断すぎる」……そんな言葉が、義視を慕う者たちの間で囁かれ始めた。
義視自身ははじめ、「兄上にとって、ようやく授かった子。ならば祝福するのも道理」と受け入れようとしていた節がある。実際、義視は義尚が生まれたときに祝いの品を贈り、誕生を寿いだともいわれる。だが、それはあくまで最初のうちだけだった。幕府の重臣たちや守護大名たちは、新たな後継者をめぐり、大きく二つの勢力に分かれ始める。より強い権勢を得たい者にとっては、いずれ「義視派」と「義尚派」に自らの立ち位置を定めることが、権力の行方を左右する決断となったのだ。
そんな中、重鎮の一人として存在感を放っていたのが、細川勝元である。勝元は細川家の当主として、また幕府管領の職にも就いた経験を持つ名門中の名門。若くして家督を継いだが、才覚があり、幕府運営にも深く携わってきた人物である。そしてもう一人、山名宗全という武士がいた。もともとは「山名持豊(もちとよ)」という名で呼ばれていたが、出家して「宗全」と号したのち、さらに力をつけた守護大名である。
細川家と山名家は、同じ幕府を支える有力守護大名であると同時に、政治的にもしばしば競い合う関係にあった。とはいえ、勝元は宗全の娘を正室とし、二人は義理の親子という関係だ。だが、その婚姻関係は必ずしも両家の友好を強固にするものではなく、むしろ複雑な関係を生み出していた。親子といえど、政治的・軍事的な利益が絡むと、それは即座にライバル関係にも転じ得る。現に、勝元と宗全は小さな対立を幾度となく繰り返していた。
当初、細川勝元は幕府を安定させるために、義視を次期将軍に立てる案を推していた。それは義尚がまだ誕生していない時点での話でもあり、勝元としては「義視が継ぐのが自然だ」という考えだったと推察される。ところが、富子が産んだ義尚が生まれた今、勝元はその態度をどうするのかと周囲は注視していた。義政の実子を後継に据えるのが「筋」と見るか、それとも「いったん養子とした義視を無下にはできぬ」と思うか。その選択は、いずれ大名たちを二分する重大な意味を持っていた。
一方の山名宗全は、元々が権謀術数に長けていると評される武将であった。宗全は西国を中心に多くの守護領を持ち、「六分一殿」と仇名されるほどの権勢を誇る。だが、細川勝元との対抗心も強く、何よりも「自らに有利になる陣営」を巧みに選び取り、あわよくば幕府への影響力をさらに強めたいという野望を抱いていた。そんな宗全が目を付けたのは、新たに生まれた義尚である。幕府の後継者がまだはっきりしないうちに、宗全は富子との間でパイプを作り、「義尚様を推すことこそ正当」と盛んに吹聴していたという噂が絶えなかった。
これらの動きが表面化していく中、畠山家と斯波家でもお家騒動が勃発していた。畠山家では、畠山持国が弟の持富を養子にした後、実子の義就(よしひろ)が生まれたことで、家督を巡る争いが激化。斯波家でも、斯波義健の養子である義敏(よしとし)が重臣との対立で失脚し、新たに養子となった義廉(よしかど)と対立するなど、家中が混乱を極める。こうした一連の「4つのお家騒動」が複雑に絡み合い、結果的に「義視派(東軍)」と「義尚派(西軍)」へと吸収されていく構図が生まれつつあった。
このように、すでに京の空気は不穏そのものであったが、庶民の目にはまだ「大名同士のいがみ合い」という程度に映っていただろう。しかし実際には、火種は点々とくすぶり、秋の落ち葉が散らばるように燃え広がる時機を待っていた。いずれ、大火となることを恐れる者もいれば、逆に「混乱の中こそ自分の力を示す機会」と考える者もいた。将軍家の後継をめぐる争いは、やがて天下を揺るがす大乱へと変貌していく——その序章が、ここにあったのである。
京の町の外れに暮らす名もなき人々は、納税に追われながらも、祭りや縁日の賑わいを日々の楽しみとして生きていた。子どもが境内で遊び、商人たちは品物を売り、僧侶は祈りを捧げ……そんな「普通の生活」の背後に、既に見えない剣呑な流れが走り始めている。それに気づく者はほんの一握り。だが、やがて誰もが戦乱の気配に否応なく巻き込まれていく運命を避けられはしなかった。
義視は常々、自分が次期将軍になるという運命をどこか当然のように感じていた。しかし、その運命を脅かす存在——それが新たに生まれた甥の義尚である。「自分のほうが相応しい」と信じる心は、次第に「奪われた」と感じる焦燥へ変わっていく。とはいえ義視もまた、兄・義政に対する信頼を完全には失っていなかった。優柔不断とはいえ、芸術を愛する穏やかな将軍であり、自分を蔑ろにするような人間ではないとどこかで信じているのだ。だが、周囲からは「甘い」と思われ、義視を取り巻く家臣の何人かは、陰で「義政公は富子様の意向ばかりに耳を貸しておられる。いずれ義視様は廃嫡も同然になるのでは」と憂えていた。
こうした思いが渦巻き、それぞれがそれぞれの正義を掲げる中、時代はゆっくりと奈落の底へ向かって動き出す。将軍家を中心に、名門大名や豪族たちの思惑が蜘蛛の巣のように絡み合い、そこへ火が放たれたとき——京は炎と血煙に包まれることになるのだ。
【第三章 波乱の兆しと将軍の決断】
1466年(寛正7年)。将軍・足利義政の周囲では、義尚の誕生祝いがまだ尾を引いている。だが、同時にその祝賀ムードは、次の将軍位をめぐる軋轢をさらに際立たせるものとなっていた。義政はなんとか穏便にことを進めようと試みるが、いかんせん意思表示が弱い。その曖昧さが、各方面への猜疑心と対立を煽っているということに、義政自身はあまり気付いていなかった。
「義政様は、義尚様を強く後継に推しておられるわけではない……しかし、富子様のご意向を無視できないのだろう」 「弟君である義視様をないがしろにはできないとお考えだが、結局どっちつかずだ」 「むしろどちらが決まっても、自分の責任にされたくないのかもしれない」
そんな陰口が、幕臣や貴族たちの間で飛び交う。そして日野富子もまた、夫・義政の歯切れの悪さに苛立ちを募らせていた。富子は頭の回転が早く、かつ財政にも明るい。彼女は「このままでは幕府の権威が地に落ち、私たちも危うい立場になる」と感じていた。だからこそ、自分の子を次代の将軍に据え、その基盤を盤石にしたいのだ。義政の態度によって、富子の野望や母としての願いが潰えてしまうのではないか——そんな不安が、富子の心を急かしていた。
一方、細川勝元は迷いを見せていた。当初は義視を推す立場をとっていたが、実子・義尚が生まれた事実は大きく、義政自身の気持ちも揺れている。勝元は政治家として「どちらにつくか」を見定めようとしていたのだが、周囲からは「はやく態度を決めていただきたい」と様々な圧力がかかる。なにしろ「管領経験者たる細川勝元」の一言が、幕府の方向性を左右しかねないほどの影響力があったのだ。
だが、この時点で勝元は一方的に義尚を支持するのではなく、義視と直接対話する機会をうかがっていた。義視がどう受け止めているのか、そして義視の背後にいる家臣や大名たちの思惑はどうなのか。それを探りたいというのが勝元の本音であった。
折しも、畠山家と斯波家ではさらに騒乱が激化していた。畠山義就と畠山政長(まさなが)の対立は、細川勝元と山名宗全の思惑を巻き込み、斯波家の義敏と義廉の争いもまた、双方に加勢を募る形で対立構造を深めていく。幕府の管領職も、このような複数の家督争いの仲裁に奔走せざるを得ない状況だった。
山名宗全はといえば、勢力拡大の好機とばかりに暗躍を続けていた。かつては足利義教(よしのり)に疎まれ、一族の山名氏清(うじきよ)が討たれるなど、山名家は一時衰退の危機に瀕していたが、宗全が頭角を現すにつれ、急速にその権力を復活させてきた。宗全は細川勝元との「親子関係」を最大限に活用し、また時には利用しようと考えている。勝元には「力を合わせて幕府を支えねばなりませんな」と笑顔で近づくが、一方で富子や義尚を推す動きも匂わせる。こうした巧みな立ち回りは、やがて京の政局を混迷の渦へ巻き込む要因となる。
やがて1467年(応仁元年)が訪れる。時の朝廷もこの不穏な空気を感じ取り、「なんとか戦を回避できないか」と少なからず動き始めていた。だが、朝廷には既に実効支配力が乏しく、守護大名同士の抗争を止めるほどの威光はない。ある公家は嘆息しながら、「これほどまでに武士が力を持つ世になるとは」と時代の変化に驚愕していたという。
そんな中、あるきっかけで畠山家の内紛が京の市中へ波及する事件が起こった。畠山義就と畠山政長の家人同士が衝突し、流血が京の町を染める。これを機に他の守護大名の兵も動員され始め、各所でにわかに緊張が走った。義政は慌てて「京での私闘を禁ず」との御教書を出すが、もはや小競り合いは止まらない。ここに至って、細川勝元はついに大軍を整え、京の街を「警護する」名目で駐屯し始める。山名宗全は「自衛のため」と称して自らの軍勢を京の出入り口に配置し、睨み合う形となった。
将軍家の周囲では、義視を支持する者は細川勝元を頼みとし、義尚を推す者は山名宗全に接近していった。さらに畠山家や斯波家の内紛も、それぞれ勝元派と宗全派に分裂する。このように「義視派(東軍)」「義尚派(西軍)」という対立構造が徐々に明確化し、今にも暴発しそうな緊迫状態が生まれたのである。
最初、誰もが「ここまで大きな戦にはならないだろう」と思っていた。せいぜい軍勢を示威的に動かして、相手を牽制し合うだけで、いずれ和睦が図られるだろう——少なくとも、京の町が焼け野原になるような大戦は想像していなかった。しかし、時勢は彼らの楽観を裏切り、物語は最悪の方向へと転がり落ちていく。
将軍・義政は何度も「事態を収めるために」と朝廷への仲介や幕府の重臣たちとの協議を繰り返すが、決定的な解決策を打ち出すことはできない。さらに、富子は「義尚様を差し置いて義視殿が力を得るようなことは断じて認められません」と水面下で動き、山名宗全を通じて大名たちを説得しようと試みる。富子は「義視さえどかせば、我が子は安泰」とばかりに焦りを募らせているようにも見える。
一方の義視は、「兄上の御前で弁明し、正統性を認めてもらおう」と考え、細川勝元と連携を深める。勝元は勝元で、「自分が義視を擁立することで幕府の実権を握る」のが得策と踏んでいた。二人は「義尚がまだ幼い以上、実務を担うのは義視殿しかおらぬ」と周囲に説得を図る。その裏で山名宗全は「幼くとも正統なる嫡子を立てるのが道理」と主張しつつ、自らの勢力圏を固めていく。こうした複雑な駆け引きが日を追うごとに先鋭化していった。
1467年5月、ついに義政の制止を振り切る形で細川方と山名方の軍勢が衝突する。応仁の乱の勃発である。初戦はあくまで小競り合いの延長のような形だったが、双方とも後には引けない事情を抱えており、やがて本格的な合戦へと拡大していく。義政は戦況を止められず、朝廷もまた傍観するしかない。これが11年にわたる長き戦乱の幕開けとなろうとは、まだ多くの人々が信じられなかった。
血で汚された町並みに、庶民たちは恐怖を募らせる。戦が本格化すれば、どこで火の手が上がるかわからない。京に集う寺社も危機感を抱いていたが、何よりも酷かったのは、兵糧や資金を確保するために各陣営が庶民に重い年貢や徴発をかけはじめたことだ。皆、口をそろえて言う。「こんな乱世になるなんて、想像もしなかった……。これが武士の世なのか」と。雅やかな都が、いま破壊と暴力の脅威にさらされようとしているのである。
こうして、応仁の乱という歴史的大事件が始まった。その真の原因が、果たして義尚の誕生にあるのか、あるいは義視を推す勢力の焦りにあるのか。それとも畠山や斯波の家督争いが最大のきっかけなのか、あるいは山名宗全や細川勝元の対立が火に油を注いだのか……。それはもはや誰にも断定できないほどに、複数の思惑が結びつき、絡み合っていた。応仁元年、「人よむなし」とも皮肉られるこの年が、日本の戦乱史に深い影を落とす出発点となるのだ。
【第四章 西軍と東軍 都を巻き込む炎】
応仁元年(1467年)5月下旬、京の街は一気に緊迫度を増していた。足利義政の居館である花の御所近くにも武装した兵がうろつき、広小路を行き交うのは物騒な噂話ばかり。畠山家や斯波家の兵力が続々と都に集結し、あるいは山名宗全の軍勢が周辺の道を封鎖する。細川勝元もまた、東軍として京の各所に布陣し、わずかなきっかけで大規模な戦闘に発展しそうな緊張状態が続いていた。
「応仁の乱」と後世に呼ばれるこの争乱は、決して最初から「11年続く大戦」などと目されていたわけではない。ほとんどの武将が、「せいぜい数ヶ月、長くても一年程度で決着するだろう」と考えていた。だが、それぞれが「自分こそが正義」「自分が譲歩するわけにはいかない」と信じて疑わず、一方的な和睦をよしとしなかった結果、泥沼へと突き進んでいく。
まず西軍として名を連ねたのは、山名宗全を筆頭に、畠山義就、斯波義廉らが集った。彼らの名分は「将軍義政の嫡子である義尚こそ正統な後継者」というもの。特に畠山義就は、家中の争いによって行き場を失いかけたところを宗全が支援していたという経緯もあり、強い結びつきがあった。一方の東軍は細川勝元が大将格となり、畠山政長、斯波義敏、そして足利義視を擁立して「正しき幕府運営のためには義視が必要」と主張する。
この構図はあくまで大まかなくくりであったが、実際には同じ西軍・東軍の中でも意見が割れたり、小競り合いがあったりと混沌そのもの。各武将にはそれぞれ土地や財政、宿敵への復讐などの思惑があり、単純に「義視派」「義尚派」というイデオロギーだけでまとまっているわけではない。事態が複雑化すればするほど、誰も戦を止めることができなくなっていく。
また、戦が長引く最大の原因は、京都という“舞台”そのものにもあった。古都・京都には多くの寺社や貴族邸が立ち並んでいたが、そうした場所には財産や食糧が蓄えられていることが多い。西軍も東軍も、合戦を本格化させた場合の犠牲を考慮しつつも、京都を拠点にすればこそ戦略的に優位に立てると睨んでいた。つまり、両軍とも都を離れるわけにはいかず、かといって都で大規模な戦闘をすれば文化的財産や住民に甚大な被害が及ぶ……だが意地と意地がぶつかる中で、少しずつ市街戦のような形へと発展してしまうのだ。
そんな状況の中、日野富子はなおも計算高く動き続けていた。表向きは「義尚様が立派に育つまで、戦を避けていただきたい」と涙ながらに嘆願してみせる一方で、西軍の山名宗全や畠山義就と内通し、必要な資金や物資を融通しているという噂が絶えない。富子自身も財産の一部を融資しては高利で貸し付け、戦後に莫大な利益を得ようとしているのではないか、という声もある。どこまでが真実かは史料不足で判然としないが、後世、「日本三大悪女」の一人と呼ばれるほどの評価を受けるようになったのは、このような行動が理由の一つともいわれている。
京の町の住民たちは戦々恐々だった。どちらの軍が強いかなど庶民には関係ない。彼らにとって重要なのは、「いかに自分たちの生活を守るか」だ。ひとたび戦火が広がれば、家や商店、田畑が焼かれる恐れがある。寺社に奉納してある宝物が奪われる可能性も高まる。ゆえに、多くの者は「ことが治まるまで」と一時的に地方へ避難したり、中には都を離れて故郷へ帰る者も相次いだ。
さらに、戦はただ兵士同士が斬り合うだけでは済まない。大量の糧秣(かりまぜ)が必要とされ、それを確保するために農民が無理矢理徴発され、あるいは年貢が増し増しで課せられる。商人も、東軍・西軍それぞれに保護料を払い、どちらの勢力にも媚びを売らねば商売を続けられない。苦しむ庶民をよそに、武士たちは「これも御家のため」と言い放ち、戦を続ける。やがて、庶民の怨嗟の声は膨らんでいき、「所詮、将軍家の都合だろう」「大名たちの権力争いに巻き込まれているだけだ」という言葉が町のあちこちで交わされるようになった。
そんな混沌の中で、唯一希望の光を見出そうとしたのが、足利義政自身であった。義政は芸術を愛するあまり、この戦を「どうにかして停戦に持ち込めないだろうか」と必死に模索していたのである。義政の脳裏には、「美しい京の雅を守りたい」「殺し合いに明け暮れる時代をこれ以上続けてはならない」という思いがあった。だが、義政はこれまでの優柔不断な姿勢を反省し、強い意志をもって仲裁に乗り出すだけの政治的手腕を持ち合わせていなかった。あるいは、そこまで踏み込む気概を欠いていたのかもしれない。
義政が動かぬうちに、戦火はじわじわと京を蝕む。かつては門前が賑わっていた名刹のあたりで、兵が睨み合い、あるいは放火の煙が空に立ち上る。焼失した家屋から悲鳴を上げながら逃げ惑う人々。寺の僧侶たちは必死になって仏像や寺宝を守ろうとするが、略奪に遭うことも少なくなかった。応仁の乱は、室町幕府の衰退を早めるだけでなく、京都という都市そのものの機能を破壊し始める。
この頃、義視は西軍の攻勢に苦しみながらも、細川勝元の助力を得てなんとか耐えていた。義視は、「ここで自分が退けば、義尚が名実ともに将軍候補として盤石になる。それだけは認められない」と、意地と誇りを賭けて戦いに身を投じていた。しかし、内心では激しい葛藤がある。相手は兄・義政の実子であり、甥にあたる存在。単なる仇敵ではないのだ。けれども、このままでは自分はただの“弟”として歴史の闇に追いやられ、父祖の家名も衰退してしまうかもしれない。その恐怖と焦燥感が、義視を戦いへと駆り立てる原動力となっていた。
一方、山名宗全は一筋縄ではいかない強者であった。西軍を率いる立場として、京の要所を押さえつつ、東軍の出方を巧みに牽制する。自らも甲冑をまとい、時には前線を激励する姿勢を見せるが、実際には「長期戦」を想定しながら自軍の勢力拡大を狙っていたふしがある。戦が長引けば長引くほど、都合が悪い者も多い一方で、宗全のような“権力の中枢を狙う”大名にとっては、混乱に乗じてより多くの地盤を奪う好機でもあるのだ。
戦乱が始まって数ヶ月が経過するも、決着の気配はない。むしろ兵士も増強され、各所で小競り合いが頻発する。朝廷や幕府がいくら「停戦してはどうか」と呼びかけても、どちらの大将も簡単に引くわけにはいかない。敵対勢力を一時でも受け入れれば、自軍の支持者が離れる恐れがあるからだ。こうして、次第に両軍は「どのように勝利するか」よりも「いかに負けを認めないか」という消耗戦の様相を呈していく。
都を覆う黒い煙が晴れることはなく、人々の心はこの永遠に続くかもしれない戦乱に疲れ果てていた。誰もが「一体いつまで戦が続くのか」と嘆き、ある者は幕府や大名に怒りを、またある者は絶望を感じていた。このまま戦国の世へと突入してしまうのか、という不安が、静かに、しかし確実に広がっていく。
【第五章 燃ゆる京と人々の苦難】
応仁2年(1468年)になっても戦火は衰えを見せず、むしろ激しくなっていた。西軍、東軍ともに「もう引けない」という意地があり、あるいは諸大名たちの「自分の勢力を伸ばしたい」という野望がさらに激化していたからである。
京の町は荒廃の一途を辿っていた。もともと木造建築が多く、火災に脆い街並みである。戦が始まれば放火も横行し、風が吹きさえすれば、あっという間に家々が燃え上がった。瓦屋根をもつ寺社でさえ、安全とは言い切れない。弓矢の放火矢や投石による破壊、さらには略奪に伴う放火など、原因はいくらでも存在した。
この頃、庶民だけでなく、公家や僧侶、果ては足利将軍家の関係者まで、都落ちをする者が続出した。ひとまず山城国や近江国など、比較的安全な地域へと避難し、情勢が落ち着くのを待とうとする動きである。だが、どこへ行っても東軍か西軍の兵が目を光らせており、簡単には自由に移動できない。さらに食糧不足や疫病の流行といった二次被害も深刻だった。
朝廷は天皇や公家らが集う聖域であったが、その威光は昔日よりも大きく損なわれていた。幕府が台頭する武士の時代にあって、朝廷の力は大名たちの武力の前に脆弱だった。そうは言っても、形式的には天皇や公家の存在は尊重されており、両軍とも御所周辺を敢えて大規模に荒らしはしなかった。しかし、それはあくまで表向きであって、近隣地域に被害が及ぶことは避けられない。
かつて「花の御所」と呼ばれ、優雅さを誇った幕府の中枢も、今や閑散としている。将軍・義政はその居館で、もはや戦を統制するだけの力を失いつつあった。何かを決めようにも、富子をはじめとする周囲の意見がまちまちで、義政はますます煩悶するばかり。思えば義政がこの乱を本気で止める機会は何度かあったのかもしれないが、結局はどっちつかずの立場を続けてしまった。その結果、「将軍なのに何もできぬ」という烙印を押され、尊敬を失いつつあった。
一方、義政の正室・日野富子は、戦乱の中でもしたたかに動いていた。西軍に協力する姿勢を見せるかと思えば、東軍側にも密かに資金を貸し付けるなど、まさに両天秤の様相。富子は「どちらが勝っても自分は利益を得る」という状態を作り出そうとしているかのように見える。その行動が本当に悪意に基づくものなのか、それとも「母として子を守るための必死の策」なのかは、後世の私たちには断定できない。ただ、富子が非常にしたたかであることは間違いなかった。
こうした複雑な権力争いの煽りを受け、大名たちの家臣やその下で働く足軽・農民たちが多大な犠牲を強いられていた。真っ赤な炎に包まれる京の町を、武士たちは「これが乱世の常」と言い放って突き進む。確かに戦国時代へと至る過程で、こうした大規模な内戦が避けられなかったのかもしれない。だが、それでも多くの人々の血と涙が流れた事実は変わらない。
さらに問題を深刻化させたのは、各所での地侍や土一揆の活性化である。もともと年貢に苦しんでいた農民たちが、守護や地頭の弱体化を機に自治を求めて蜂起するケースが増えた。戦乱の最中、東軍や西軍に加勢する形で自らの権利を認めさせようとする動きもみられる。こうした「下剋上」の風潮が徐々に全国へ伝播し、最終的には戦国大名という新たな支配層の台頭につながっていくことになる。
なお、この頃の義視は、東軍の一員として幾度となく合戦の指揮を執っていた。義視の立場は極めて難しく、兄・義政の意向を無視するわけにもいかず、かといって富子への不信は募るばかり。戦が続く中で、義視自身も「これでいいのか」と自問する日々を送っていたという。だが、矛を収めれば「裏切り者」として味方から切り捨てられる恐れもある。義視は戦場に身を投じながら、血に染まる現実と直面することとなった。
周囲の大名たちも、はじめは「短期決戦で有利な条件を勝ち取ろう」と考えていたが、気づけば長期戦になり、財政や兵糧も苦しくなっていた。中には戦意を喪失し、密かに相手方と内通を始める者も出てくる。そうした動きがさらに混沌を深め、どちらが敵でどちらが味方か曖昧になっていった。
細川勝元は管領経験者として、ある程度の大義名分を掲げていたが、それが民衆に受け入れられているわけではない。山名宗全もまた、大乱に乗じて一族の勢力を拡大したいという野心が透けて見え、少しずつ支持者が離れ始める。双方が綻びを見せながらも、それでも主導権を握るために戦いをやめることはできない。こうして京の町はさらに荒廃を重ね、人々の生活は根こそぎ破壊されていった。
当時の記録には、「連日のように火災があり、慣れてしまって涙も出ない」「どこからともなく悲鳴が聞こえるが、助けに行けば自分も命を落としかねない」「戦乱が起きる前は、雅やかで美しい京を誇りに思っていたが、今はただ恐ろしく、醜い地獄のようだ」——そんな声が残っているという。わずか数年で、都の様相は一変した。
それでも、まだ戦いは終わらない。東軍と西軍は、にらみ合いと小競り合いを繰り返しながら、どちらも「決定的な勝利」を得られないまま、ずるずると争いを続けていた。応仁の乱の最も特徴的な点は、「戦国の決戦」に比べて大規模な総力戦には至らず、小競り合いが延々と続く形態をとったことにある。両軍とも、そこまで消耗戦を望んでいたわけではない。ゆえに、果てしなく続くにらみ合いの中、兵士たちは疲弊し、庶民も絶望に沈んでいく。
そして、幕府の権威は無残にも失墜していった。義政は建前上、依然として将軍だったが、誰もその命令を本気で聞こうとはしない。細川や山名といった実力者たちが勝手に動き、富子までもが私腹を肥やすかのように立ち回る。もはや室町幕府は名ばかりの存在と化していた。
このまま「都の没落」は避けられないのか。人々はそう感じ始めていた。だが、歴史とは皮肉なもので、応仁の乱の混乱が長期化することで、新たな勢力が台頭してくる土壌もできあがっていた。そして、その結果が「戦国時代」の到来へと繋がっていくのである。
【第六章 縺れゆく縁と裏切りの狭間】
応仁3年(1469年)に入っても、戦況は好転しなかった。むしろ、西軍と東軍の対立は固定化し、泥沼化の様相を呈していた。最初こそ高揚感を持って合戦に臨んでいた武士たちも、これだけ長く続けば疲労と倦怠が積み重なる。指揮官たちの意欲も減退し、「いったいいつ終わるのだ」という嘆きが軍内部にも漏れ始めた。
そんな中、山名宗全と細川勝元の“義理の親子”関係も表面上のことに過ぎず、裏では互いにどこか譲歩の糸口を探っていたフシがある。とはいえ、いずれかが折れれば相手に飲み込まれる恐れがあり、簡単に妥協はできない。そのため、両者とも「条件が合えば和睦もやぶさかではない」と周辺に漏らしつつ、実際には軍備を緩めることはしなかった。
一方、足利義視はますます立場が難しくなっていた。義政と富子、そして義尚に対する感情は複雑である。元は自分が将軍の後継者になる話があったにもかかわらず、生まれた甥にその座を奪われかけているという現実。その裏には富子の影があり、義政自身の煮え切らない態度もあった。義視を推す武士たちが期待を寄せる中、義視本人は「自分は本当に将軍になるべきなのか」と自問することもあったという。
だが、義視の葛藤をよそに、彼を支持する勢力は東軍の一角として揺るぎない存在を示しており、逆にいまさら義視が「乱をやめる」と言い出しても通用しない段階に至っていた。義視が和睦を求めれば、「裏切り者」として糾弾されかねない。義視にしてみれば、応仁の乱がここまで大規模になってしまった以上、自分の意思だけではどうにもならない状況に追い込まれていたのだ。
畠山家や斯波家の内紛も依然として続いており、それぞれが西軍・東軍のいずれかに属しながら、さらなる内部対立が起こるなど、ますます混乱を深めている。つまり、単に「東対西」の構図だけでは説明しきれない複雑極まりない状況にあった。ここまで絡み合った糸を解くのは容易ではなく、かつ互いに大量の死傷者を出しながらも決定的勝敗がつかない。こうして乱は長期化し、歴史上かつてないほどの混沌を生み出していく。
庶民たちは、すでに幕府や大名に対する期待を失い、ただひたすら「これ以上被害が広がらないように」という願いを抱くのみであった。中には、戦乱で荒れ果てた京を捨て、新天地を求めて地方へ移り住む者も増えていく。雅の都として栄えてきた京都は、これを機に人口の流出が加速したとされる。結果的に京都の経済は低迷し、文化的な活動も一部の上流層や寺社に限られるようになっていった。
そんな中で、新たに台頭してきたのが「守護大名にとって代わる存在」としての地侍や有力国人層である。武士社会の秩序が乱れる中、領国で独自の権力を確立しようとする小領主たちが、混乱の時代にこそチャンスありと一揆や独立を試みるようになった。これがいわゆる「下克上」の風潮を生み、戦国時代の基盤が形成されることになる。室町幕府の権力は弱まり、かつ守護大名も全国的に見ると衰退の傾向が強まり、代わりに頭角を現す新興勢力が各地で生まれ始めていた。
まさしく応仁の乱は、その転換点として象徴的な出来事になった。とはいえ、当時の武士たちにとってみれば、目の前の合戦を勝ち抜くことが優先であり、後の時代に「これが戦国時代の幕開けだった」と評されることなど知る由もない。すべては壮大なる歴史のうねりの一部に過ぎなかったのだ。
山名宗全は、西軍内部でも抜きん出て指導力を発揮していたが、その一方で老齢とされる年齢に差し掛かっており、疲労の色が濃いとも噂されていた。焦燥感や無理がたたり、徐々に健康を害していたともいわれる。宗全は「自分が退いたとき、山名家がどうなるか」を考えながら、後継者に遺訓を残す準備を進めるなど、未来を見越した動きもしていたという。その姿を見て、一部の家臣は「そろそろ戦を終わらせ、平和な世を築く方向に進んではどうか」と進言したが、宗全は「もはやここまで来ては、勝元が引かぬ限り我らも引けぬ」と言って譲らなかったと伝えられる。
細川勝元もまた、敵方の宗全と同様に心身をすり減らしつつあった。家臣たちが次々と討ち死にし、領地の収入も減る一方である。だが勝元は「ここで退けば細川家の面目は丸つぶれ」と意地を張り続け、軍を退かせる素振りは見せなかった。息子や一族から「長引けばこちらが不利」との声が出ても、「我らが退けば、山名家をはじめ西軍が勢いづく。そうなれば京都はますます乱れる」と突っぱねる。もはや彼ら大名たちには、“維持するしか道がない”という心理がはたらいていた。
こうした大名間の意地と意地が衝突する中、同じ軍の中での裏切りや離反が増え始めるのは当然の成り行きだった。経済的に困窮した武将がこっそり相手陣営と手を組み、「金銭と領地の保証」を条件に寝返るケースは日常茶飯事。西軍に所属していたはずの武将がある日突然「実は東軍側だ」と名乗ることもあり、その逆も少なくない。おかげで前線の兵士たちは混乱を極め、時に味方同士が間違って斬り合う惨事も起きた。
このような無秩序の極みにあって、唯一「中立」といえる存在は、もはや朝廷や幕府くらいであった。しかし、どちらも軍事力を持たず、実際には戦乱を止められる術を持たない。義政がどんなに嘆き、富子がどんなに取り繕っても、彼らの言葉に強制力はなかった。その一方で、富子が裏で握っている財力は侮れず、結果的に彼女だけが戦乱を“利用”できているように見えた。
こうして、応仁3年、4年と年を重ねても戦いは終わらず、人々の心には「もはや都に平和は戻らないのでは」という絶望が刻まれていく。折に触れて両軍の間に休戦協定の話も持ち上がるが、条件の折り合いがつかずに流れるのが常だった。いったい、この破局に終止符が打たれるのはいつになるのか——京の空を見上げる人々の瞳には、もはや輝きはなかった。
【第七章 戦塵の果てに見えた光】
応仁の乱が始まってから数年。世はすっかり荒廃の色を深めた。都の景観は見る影もなく、貴族たちの優雅な行列や盛大な祭礼も開催できない状態が続いている。夜ごと響くのは怨嗟と、時折起こる小規模な合戦の鬨の声や悲鳴ばかり。その惨状はまるで絵巻物の地獄絵にも似ていた。
そんな最中、足利義政はついに「このままでは京都が滅んでしまう」と危機感を覚え、本腰を入れて和平工作を試みようとする。義政の政治力は弱体化しているとはいえ、将軍としての名目が完全に消えたわけではない。朝廷と連携し、東軍・西軍双方の代表を招いて「京からの撤兵」「お互いの家督相続の承認」など、停止条件を模索する場を設けようとしたのだ。
しかし、山名宗全は「それを受け入れるかどうかは細川勝元の出方次第」と言い、勝元は勝元で「西軍が大人しく退かないのに、こちらだけ先に退く理由はない」と拒む。結局のところ、両者とも相手が先に譲歩しなければ応じないという態度で、和平工作は宙に浮いたままだった。
にもかかわらず、戦乱は徐々に下火になりつつあるようにも見えた。その理由の一つは、両軍が疲弊しきっていたこと。長期にわたる戦費や人員の損耗で、派手に合戦を続ける余裕がなくなっていたのである。もう一つは、地方へ逃れた人々が、各地で独自の自治や経済活動を始め、必ずしも京に戻る意欲が薄れてきていたことだ。京都に執着するのは、朝廷や幕府、あるいは京都近辺を本拠とする大名や守護たちだけになりつつあった。
義視に関しても、これだけ戦が続けば「勝利」などという明確な形があるわけではなく、結局は泥仕合の先にいつか訪れるであろう和平を待つしかない。しかし、義視は「己の意地」を捨てられず、表向きは今なお「足利将軍家の正統継承者」として西軍に対抗していた。実際には、義視個人の意思ではどうにもならないほど、多くの武士が「義視殿を擁する」という形で己の利害を追求しているだけなのだが。
細川勝元と山名宗全も、和平の道筋を探りながらも明確に動けずにいた。どちらも「自分が勝利した形」を取り繕わない限り、家名を失墜させる危険がある。両者にとって、戦とは「大義」と「家名」をかけた面子の問題でもあったのだ。現代の感覚からすれば不毛に見えるが、当時の武士社会では「面子を潰されることは、家の滅亡にも等しい」と考えられていた。
そんな中、宗全の健康状態はさらに悪化していたという。過度な疲労と高齢に加え、日々の戦いによる精神的な消耗は想像に難くない。ときには病床に伏せりながらも部下に指示を出す状態で、その苛立ちが周囲を萎縮させ、逆に戦を止めるに止められなくなる一因ともなっていた。宗全は口癖のように「勝元さえ降りればすべては丸く収まるものを……」と漏らしていたというが、それは勝元にしても同じで、「宗全さえ譲れば」と思っていたに違いない。
この年、西軍・東軍いずれかに所属していた諸大名の中には、すでに本国へ帰還する者が出始めていた。「いつまでも京で睨み合いを続けては自領が荒れるばかりだ」と悟ったのだ。京都での戦いにこそ執着する必要がないと判断すれば、領地に戻って内政を立て直すことを優先するのは当然だろう。
こうして、徐々に戦火が下火になっていく中、ある事件が起こる。山名宗全の急病死である。正確には病状が悪化した末の死とも言われるが、それをもって西軍全体がガタつき始める。宗全という“柱”を失った西軍は、統率力を大きく失い、それを機にある程度の和平を受け入れる動きが加速した。細川勝元側も宗全の死を知って勝利を確信し、強引な制圧に出るかと思いきや、勝元自身も健康を害し、ほどなくして彼もこの世を去ることになる。
この二人の死によって、応仁の乱はある種の“求心力”を失った形となった。戦の大義名分を唱えてきた両巨頭が相次いで世を去り、もはや大乱を継続する理由が曖昧になる。結局、戦場は次第に小康状態へ移行し、各武将がそれぞれの領国へ帰っていくことで、京の町は荒れ果てたまま放置される格好となった。
最終的に、応仁の乱が正式に「終結した」と言えるような布告は存在しないまま、実質的な戦闘は下火となっていく。11年にわたる戦乱は、こうしてじわりじわりと終息した。だが、その爪痕は深く、京都の再興には長い年月を要することになる。
足利義政は、これらの出来事を経て、政治の実権を失ったまま銀閣(慈照寺)の造営など文化面に注力していく。日野富子は、「戦乱で荒稼ぎした」という黒い噂を引きずりつつ、義尚の成長を見守り、後の幕政にも影響力を残す。義視もまた、乱後しばらくはその地位を保持するが、結局は義尚が実権を持つことを容認せざるを得なかった。
こうして、応仁の乱という史上例のない長期内戦は幕を下ろす。しかし、その結末は「誰も得をしなかった戦」として後世に語り継がれるようになる。京は荒れ、人心は離れ、室町幕府の権威は落ち、守護大名たちも各地で台頭する下克上の波に晒される。まさに日本が本格的な戦国時代へと足を踏み入れる導火線としての役割を果たしたのだ。
【第八章 乱世を駆ける者たち】
応仁の乱が形骸化し、京の町から争いの気配が薄らいでいくにつれ、各地では新たな力関係が生まれ始めていた。かつては幕府から守護職を任され、大きな権限を振るっていた有力大名たちも、長期戦で疲弊した結果、領国支配にほころびが生じている。この隙を縫って、国人や地侍、さらには野心的な家臣たちが台頭し、自分たち独自の国造りを目指す動きが活発化していた。
これがいわゆる「下克上」の時代——戦国時代の幕開けである。従来の「主従関係」が絶対ではなくなり、力を持つ者が上に立つ風潮が拡大していく。山名宗全や細川勝元といったかつての巨頭たちが相次いで没したあと、その後継者たちも“総大将”として乱を束ねるだけのカリスマを持ち得ず、結果的に群雄割拠の状態へ向かっていくのだ。
畠山家や斯波家なども、内紛を解決するどころか、さらに複数の分流が争う状態が続いていた。応仁の乱によって彼らの家中の対立は強まり、求心力を失った当主たちが地方の豪族に取って代わられるケースも少なくなかった。そんな状況で、室町幕府は何の救いにもならず、各地域がほぼ独立した存在として動き始める。その象徴的な事例が、後に出現する戦国大名の群像だ。
紀伊や伊勢、出雲など、全国各地で自立的に勢力を拡大する者が現れ、やがて織田信長や武田信玄、上杉謙信、毛利元就らの時代へと続いていく。応仁の乱は、その大いなる転換点として機能したに過ぎないが、同時に「中央集権の崩壊」を示す重要な分岐点でもあったと言えよう。
足利将軍家は、その名声だけは維持していたが、もはやかつての権威はなく、有力大名の協力なしには何も決められない存在へと転落していた。義政は戦乱後、銀閣を完成させ、自身の芸術的探求に没頭する。これは「現実逃避」だったのか、それとも「荒廃した都で美を守る」ための意地だったのか——人によって評価は分かれるが、結果的に義政の政治的役割はごく小さく、実質的な支配権は多くの国人領主や新興の戦国大名へ委ねられていった。
日野富子は戦乱の時期に莫大な財を蓄えたとされ、その資金をもとに幕府運営へ関与を続ける。息子である義尚は成長し、9代将軍として名目上は幕政を担うが、実際には守護大名の合議に左右され、独自の政治を行う余地は限られていた。義視も一定の影響力を保ったが、義尚との関係は微妙であり、結局は義尚の死後、10代将軍・義稙(よしたね)を迎える過程で再び紛争が起こるなど、室町幕府は常に不安定な状態が続くことになる。
こうした混乱をよそに、地方では戦国大名が次々と名乗りを上げ、自国の経営に乗り出した。「守護」の肩書を捨て、より自主的な領国経営を行い、城を築き、家臣団を整備し、農村や都市を直接支配していく。応仁の乱を通して得た教訓は、「中央に頼るより、己の力で領国を守る」という姿勢であり、それこそが戦国大名の誕生を促すエネルギーとなったのだ。
庶民たちにとってみれば、この変化は決して悪いことばかりではなかった。確かに大名が直接支配することで年貢の取り立ては厳しくなる場合も多かったが、同時に地域の治安維持や経済活性化に力を入れる大名も現れたのだ。中央が混乱している間に、自分たちの領地を豊かにしようという気概を持った戦国大名は、民衆から一定の支持を得ていた。これが後に「城下町」の発展へ繋がり、戦国期の経済や文化を底支えすることにもなる。
一方の京都は、戦乱の傷が深く、多くの建物が焼失し、人口も流出した。元の華やかさを取り戻すには相当な時間を要した。それでも京都には、長い歴史と宗教施設や公家のネットワークがあり、東山文化をはじめとする新たな文化の発展の土台が残されていた。応仁の乱後、義政が主導した銀閣や庭園の美意識は、のちに侘び茶や禅宗の美学へと繋がっていく。苦難の中にも、文化的な芽は絶えず息づいていたのである。
こうして日本は、室町幕府の統制力が著しく低下し、各地の大名が互いに覇を競う戦国時代へと突入する。応仁の乱から数十年後、下克上の風潮はますます勢いを増し、尾張の織田氏のように守護大名を追放して実権を握る例が頻出するようになる。かつての「東軍・西軍」の図式なども遠い過去の話となり、天下布武を唱える者たちが現れるのは、そう遠い未来ではなかった。
【第九章 揺れる将軍家と戦国の波】
応仁の乱が終息に向かった後も、室町幕府内部では小競り合いが続いた。義尚と義視の関係は、表面上は和解した形を取ったが、根本的なわだかまりが消えたわけではない。義尚が9代将軍となり、実務は幕府奉行衆や管領の合議で進められたが、裏では日野富子が経済力を武器に影響力を行使していた。
義尚が成長し、意欲的に政治に関わろうとし始めると、富子との間にも衝突が生まれる。富子はあくまで「義政から続く家督の安泰」を望みつつ、義尚の独断専行を制止しようとする。だが、義尚は若い血が滾っており、父が果たせなかった武家の威信を取り戻すべく、積極的に軍事行動を起こして守護大名を抑え込もうと試みることもあった。結果的に、これがさらなる戦火や反発を招き、室町幕府の混迷を深める要因の一つとなる。
同時期、地方では新たな勢力が台頭していた。尾張の織田氏、駿河の今川氏、越後の長尾氏(後の上杉氏)、甲斐の武田氏など、後に戦国史を彩る大名の名前が歴史の表舞台へ姿を現し始める。室町幕府としては、「これらの大名を取り込んでこそ再興の道が開ける」と考えていたが、もはや征夷大将軍の威光に従う時代ではなくなっていた。各地の大名は「自分の国は自分で守る」という信条を強め、京都からの命令が届かないという事実が日常化していったのである。
義政は、政治の混迷を横目に見ながら、静かに余生を過ごしていた。銀閣を代表とする東山文化に力を注ぎ、諸芸術家や禅僧との交流を深める中で、独自の美意識を確立していく。乱世においても花を愛で、座禅を組み、静寂の美に浸る義政の姿勢は、一部から「現実逃避」と批判されたが、後の日本文化に大きな影響を与えることになる。
富子もまた、義尚との確執を抱えながらも、幕府財政を支える実力者として君臨し続けた。その経済手腕は一介の女性の枠を越えたものであり、日野家のネットワークを駆使して金銭貸借や政治工作を行い、時には自らの親族を大名家に縁付けて権勢を拡大したという。これらの行為が「悪女」と呼ばれるゆえんだが、戦乱の世にあっては、富子ほどの実務能力を持つ人物は貴重であり、義尚もやむなく協力を仰がざるを得ない場面がしばしばあった。
義視は、かつての「将軍候補」としての意地を忘れられずにいた。しかし、応仁の乱後の幕府で彼の存在感は薄れ、やがて幕府や大名の駆け引きの狭間で微妙な立場に立たされることになる。義尚との関係が改善したわけでもなく、また富子に対するわだかまりも拭いきれず、義視は政治の表舞台から一歩退いた形になった。後世から見れば、応仁の乱がもたらした犠牲者の一人とも言えるだろう。
このように、室町幕府の内部構造自体が不安定なまま、時代は戦国の荒波に翻弄されていく。京都に在住する貴族や公家たちは、なんとかかつての文化を守ろうとするが、庶民や下級武士にとってみれば、生活の安定を得られるかどうかが死活問題だ。彼らは次第に「強い大名」に従う道を選ぶようになり、国人や地侍は「自分たちの利益を守ってくれるならば」として、守護大名を見限ることも珍しくなかった。
こうした流れの中で、覇権を狙う戦国大名が次々と力をつけていくのは当然の帰結と言える。彼らは応仁の乱の教訓を踏まえ、「長期的な合戦は疲弊を招く」と悟り、短期決戦や外交術を駆使して領国を拡大していく。その過程で、地侍や下層民を味方につけ、信望を集めるカリスマが生まれる。後の織田信長や豊臣秀吉、徳川家康へと続く新たな天下取りの時代が、こうして開幕したのだ。
すべての発端である応仁の乱は、もはや歴史の一場面に過ぎなくなったかのように見える。しかし、この乱がなければ、室町幕府があそこまで急速に権威を失うことはなかっただろう。戦乱が全国に波及する速度も、これほど早くはなかったかもしれない。それほどまでに、応仁の乱は日本史を大きく変えた分岐点だったのだ。
【第十章 終わらぬ乱のあとに】
応仁の乱。その名は現在に至るまで、「なぜ起こったのか」「何が原因だったのか」と議論され続けている。将軍家の後継問題が火種になったのか、それとも畠山家や斯波家の内紛が主因なのか、あるいは山名宗全と細川勝元の対立が決定打となったのか——史料が乏しく断定は難しいが、おそらくそれらすべてが複雑に絡み合った結果であると見るのが妥当だろう。
11年という長期にわたる戦乱の中で、幕府は権威を失い、京都は荒廃し、地方では下克上の風潮が高まった。勝者と敗者が明確に定まらないまま、結果として一番大きなダメージを被ったのは、武家社会の秩序そのものだった。多くの大名が蓄えてきた財と兵力を使い果たし、庶民は流離い、文化や伝統は焼かれ、そうして生まれた真空地帯を埋めるように、新たな力が時代を動かし始めたのである。
足利義政は、乱後に政治の中心から退き、その美意識を銀閣や庭園に反映させた。死後、彼が残した文化的遺産は「東山文化」として花開き、日本の伝統美の一翼を担うことになる。それは戦乱の中でも消えなかった「心の潤い」への希求であり、同時に義政が最後に示した抵抗の形でもあったのかもしれない。
日野富子は、「悪女」「政商」と呼ばれながらも、応仁の乱によって荒廃した幕府をなんとか経済的に支える存在として動き続けた。その評価は、後世でも議論が絶えない。乱世にあって自らの家を守り、子を将軍に据え、財を蓄えるという行動は、同時代を生きた女性としてはきわめて実務的かつ大胆なものであった。彼女は「戦乱の被害者」ではなく、「乱世を生き抜く術を知っていた女性」という面が強い。もっとも、そのために多くの人々を翻弄し、結果として応仁の乱を長引かせた一因になったのではないかという批判は免れないだろう。
足利義視は、結果的に将軍になることはなかったが、その存在は「もうひとつの可能性」を示していたのかもしれない。もし義尚が生まれず、義視が将軍位を継いでいれば、あるいは幕府の混乱は防げたのか——そればかりは想像の域を出ない。義視もまた、周囲の思惑に翻弄され、自らの道を貫けなかった武士の一人として、歴史にその名前を刻むに留まることとなる。
応仁の乱の結末は、決して「大団円」などではなく、戦国の世への入り口に過ぎなかった。下克上は加速し、新たな大名が台頭し、戦乱は全国各地で燃え広がっていく。その果てに訪れるのが、織田信長の登場、そして豊臣秀吉の天下統一へ向けた大動乱の時代だ。やがて徳川家康が江戸幕府を開き、長き安定期を築くまで、日本列島は血塗られた戦乱の歴史を歩むことになる。
だが、応仁の乱をきっかけに新しい文化や地域経営の形が生まれたことも否定できない。戦乱の中で培われた茶の湯や花の文化は、のちの茶道や華道へと繋がり、城郭や城下町の形成は経済と交通の活性化を促した。歴史とは常に、破壊と創造が背中合わせにある。その象徴が、この応仁の乱であったとも言える。
結局のところ、応仁の乱とは何だったのか。それは「室町幕府の衰退」を決定づけ、「戦国時代」への道を開いた大規模内乱であり、多くの人々の運命を狂わせた悲劇でもあった。そして、その混沌が日本史を新しい方向へと押し進めたのもまた事実だ。雅であった室町の文化は戦乱を経て形を変え、やがて桃山文化や江戸文化へとつながっていく。
この物語は、京の都を舞台に繰り広げられた応仁の乱の一断面を描き出したに過ぎない。まだ多くの武将や貴族、僧侶、庶民たちの視点があり、それぞれにドラマがあった。誰もが「乱を早く終わらせたい」と思いながら、結局は11年もの時間を浪費し、破滅的な結果を招いたのである。そこには人間の弱さや欲、そして時代の激流が凝縮されていた。
現代に生きる私たちも、応仁の乱から学ぶことは少なくない。権力争いがどれほど不毛な結末を招くか、対立が長引けば社会全体が疲弊すること、そして混迷の中でもなお、新たな光を見出して創造する人間の力——これらはいつの時代も変わらぬ教訓だろう。
応仁の乱は終わっても、乱世は終わらなかった。だが、その“終わらぬ乱のあと”には、確かに次の時代を切り拓く種が蒔かれていたのだ。荒廃した京都に、わずかながらも咲き始めた花のように、歴史は破壊の後から新しい息吹を吹き込む。それはきっと、どんなに暗い時代にも宿る、人間の持つ希望と創造の力なのだろう。
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以上、全十章にわたって「応仁の乱」を題材とした長編小説をお届けしました。室町幕府衰退の危機から始まった跡継ぎ争いが、畠山家や斯波家などの有力大名の家督争いと結びつき、さらに山名宗全と細川勝元という実力者の対立を中心に長期戦へ突入していく様子。11年にわたる戦火の中で京都は荒廃し、幕府の威光は失墜し、人々の運命が大きく翻弄されました。
しかし、その荒廃がもたらした結果は「戦国時代」という新しい時代の幕開けでもあり、文化や権力構造の大転換を促すきっかけにもなりました。本作では、足利義政・義尚・義視、そして日野富子をめぐる人間模様を軸に描きましたが、実際の応仁の乱にはさらに多くの大名、武将、庶民の物語が存在します。その全てを描くにはあまりにも広大な歴史ですが、本小説が、当時の混迷とドラマ、そして人々の苦悩や希望の一端を感じ取っていただける一助となれば幸いです。