退職宣言
29年間サラリーマンをしてきて、会社を辞めるような素振りをしたことはなかった。
職場は好きだったし、上司やメンバー、同僚にも恵まれていた。
多くの先輩や同僚、後輩たちが会社を辞めていくのを見送ってきたが、自分は自分のわがままで辞めるわけで、できるだけ職場に迷惑をかけないで辞めたいとは思っていた。
上司にそれを告げるタイミングが非常に難しかった。上司は全く想像していなかったようで、突然の告白に大変驚いていた。こればっかりは相談する相手もなく、自分でタイミングを考えるしかなかった。
コロナ禍に母親に腺癌(肺がんの一種)が見つかり、築地の国立がんセンターに通院するにあたり、看病のため、私が介護離職という形を取らせてもらうよう話をした。
会社の規定では1ヶ月前に退職届を出すことになっているが、上司には辞める3ヶ月前に話をした。一応、異動、組織変更のタイミングに合わせて後任人事が対応可能なタイミングのつもりだったが、それでも結果的には後任は見つからず、迷惑をかける形になった。
従業員がクビにされたくない場合には、会社というものは命令を出す強制力があるのだが、「辞める」と言っている人間に対しては意外なほどに会社は何も強制ができないものだった。
しかし、会社という「世間」の枠の中で長年生活をしてきた慣性というか、習慣があるため、辞めるとなると何に気をつけなければならないのか、自分が辞めた後の影響がわからなかった。もともと、サラリーマンなんて歯車の一つだから、大きな組織にあって1人抜けたところで代えはいくらでもあると思っていたが、いざその段になると無責任な気持ちにはなれなかった。
辞めた後のプロジェクトのスケジュールに支障が出る可能性がある人から告白をしていった。今思えばそれほど気を使う必要はなかったのかもしれないが、組織を乱す罪悪感のようなものがあったと思う。
その後仕事で関わることもあまり考えられないため、突然スパッと辞めても実際には私には問題がない。しかし、会社という家族の中にいると脱藩するのは精神的に容易でない。今にして思えば、みんなや組織に「守られている」感がめちゃくちゃ強かったのだと思う。
終身雇用制の家族のような組織で、転職していった人たちは口を揃えて「いい会社だった。出てみて初めて分かった」と言っていた。
会社員を辞めるとどんなに視界不良な濃霧の世界が広がっているのか、本気でよくわからなかった。
また、2年前に早期退職制度で辞めていった人たちもほとんど全ての人が転職をして「会社勤め」を続けていて、フリーランスになる人なんていなかった。
しかし、いざ辞めてみると、自分で事業をやっている人たちからは、ほぼ必ず「おめでとう!」と言われるのだ。最初はその意味がよく分からなかったが、しばらくしたらその意味がわかってきた。
正直言って、実態として今の日本で飢え死にするようなことはない。選り好みをしなければ最低賃金の仕事は必ずあるし、誰かに命令をされるわけでないので、逆に仕事は自分の好みで選び放題だ。
一体何がそんなに恐ろしかったのか。喉元を過ぎれば熱さを忘れるというが、恐怖の実態が段々分からなくなっていった。
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