もちめるが逝った。ぼくたちのメンヘラ論
昨日、ひとつのツイートが世を賑わせていたのを諸君はご存知だろうか。
もちめること望月めるが亡くなったという一報だ。
もちめるについては、彼女のTwitterやら、インスタやら、適当なまとめ記事をググって頂ければ、私よりも詳しく書いてあるだろう。今回説明は省かせてもらう。
私は彼女に対し「メンヘラのお手本」という感情を持っていた。彼女が確立した現代のメンヘラ論、それはメンヘラ神とも南条あやとも違うものだった。可愛いからクズでも何をしても許される、許さずとも何故か憎めない。どんだけ字が汚かろうが、ファンに対して詐欺まがいのことをしようが、アイドル活動を飛ぼうが、V系アーティストに貢ごうが、何故か憎めない。歌舞伎町によくたむろしていて、一般的に言って汚い仕事をこなした金でより可愛い、愛される顔を作る。そんな彼女は私の中に確実に新しいメンヘラ像を創造していった。
彼女の死に対し、私を含め彼女に興味を持つ人間は、ひとつ疑問に思ってしまった。
「もちめるってマジで死んだの?」
事実、彼女にはどうやら死んだフリというものの経験があるらしく、そのような噂が散見されている。
私はこれに笑うしか無かった。
完全に人生がコンテンツ化しているのである。理由はどうであれ、20歳もそこそこの彼女は、かの織田信長のように「生存説」が上がるほどの人間になっていたのである。
彼女は顔一つで人生のコンテンツ化に成功したのだ。コンテンツ化すれば他人に搾取される。
不幸にも彼女の周りには正しい(今回に関しては正しさはあやふやだ)大人がいなかった。また彼女自身も未熟で、悪く言えば「馬鹿」であった。結果として、望月めるというコンテンツ運営側である彼女は耐えられなくなりサービス終了という訳だ。
彼女本体の生死はどうであれ、望月めることもちめるは「死んだ」のだ。
令和のメンヘラは、人生をSNSと承認欲求に捧げ、コンテンツ化するというのが正しいのかもしれない。
メンヘラは脆い。
コンテンツ化するにはあまりにも不十分である。しかし、コンテンツ化し消費されないと令和の世の中、特にインターネットでは輝けないのである。
これはメンヘラ以外のインフルエンサー全般にも言えることだ。
一瞬の輝きのために人生をコンテンツ化していく人々。
インターネットは陰でジメジメとやるには大きくなりすぎてしまったのだろうか。我々陰の者には扱えない代物に変化していってることを、彼女の死から再確認させられた次第である。
望月めるサービス終了です。お疲れ様でした。