学習方法をアップデートしようと思えた出来事~気づけば自分がアナログ人間~
久しぶりに村上春樹のノルウエィの森を読みました。一つの例を挙げれば性描写が受け付けないという理由でこの作品に嫌悪感を示す方もいますが、それでも私はこの一冊が大好きです。例に対して反論的なことをすれば、その性描写こそが寓話的に人間の不完全さを示していると思えるからです。
ノルウエィの森において欠かせない登場人物が永沢さんです。「永沢語録」たるものが存在する程に彼に夢中になった村上春樹ファンも少ないないことを想像します。
本作主人公のワタナベと永沢はフィッツジェラルドのグレート・ギャツビイをきっかけに関係を近くします。ワタナベ同様に、永沢さんもこの作品を愛していた訳ですね。私も大好きです。登場人物全員を諳んじて言える程に。
そんな永沢さんの読書スタイルは「死後30年を経ていない作家の本は"原則"として手にしない」というものです。フィッツジェラルドを愛好していると聞いたワタナベはこのようにツッコミをいれます。
それに対して永沢さんはこのように返します。
このやり取りはなんだかコミカルですよね。ワタナベは、このやり取りを踏まえて「永沢さんは”原則”として死後30年を経ていない作家の本を手にしない」と前置きしたのか、それとも、永沢さんがそのようにワタナベに言ったのかが気になるところです。後者であればコミカルさが増し増しになります。
さて、ノルウェイの森に加えて久しぶりに再読した本があります。橋下徹さんの「異端のすすめ」です。たまにパラパラっとめくりたくなるお気に入りシリーズにこの一冊も含まれており、意欲がわかない時に手に取ったりします。今回は最初から最後までページをめくりました。
この一冊について特に強調したいのは、「異端」という捉え方です。「異端であれ」と聞くと、「人とは違ったことをする」とか「突拍子もないことにチャレンジする」とかそのような姿をイメージする方もいるかも知れませんが、本書で用いられている「異端」についての私の捉え方はそれらとは異なり以下のようなものです。
「異端とは、多くのことに挑戦し、その道でも突き抜けるために行動する。その結果、複数の分野の経験が掛け合わさってユニークな強みになる。それこそが異端である」というものです。
橋元さんであれば、弁護士×タレント・コメンテーター×政治家という複数分野の経験と行動が唯一無二の強みになっているという訳ですね。
ここからがようやく本題になるのですが、この一冊からはそこらのチープな自己啓発本よりも遥かに大きな勇気をもらっています。なぜなら、橋元さんが大きな力と闘う姿をメディアやSNSを通じてリアルタイムで見てきたからです。本書で「持論を展開すること」の重要性が説かれていますが、正に有言実行の極みですね。このような背景もあって勇気をもらっていることを改めて感じたことに、新たな気づきを得たんです。
ここ数年、レビューとタイトル、表紙のイラストだけで判断してAmazonで新書を購入する機会がずいぶん増えました。そこには「新しい知識や刺激を得る」という期待があってのことなのですが、実際に読んでみてガッカリするケースが少なくありません。タイトルやキャッチコピー、イラストでハードルを上げすぎている故にだと思うのですが。
ところで、新書を出版になる方の中には、SNS等でリアルタイムに情報発信をされている方が多く見受けられます。著作に加えて、リアルタイムの情報発信に触れることが、その方の思考や主張をトレースするという新たな学習スタイルになるのではないか、という閃きを得ました。先で言うところの新たな気づきです。
SNSが台頭する以前は、著者から読者への情報発信というのは一方通行であり限定的なものでしたが、最近ではそれがインタラクティブになっているなぁと感じるところです。そのような変化の中で、新しい学習スタイルを模索しないのは実にもったいないことだと思ったりもします。
私が体系的に学ぶ方法は本の一択でした。動画やアプリによる学習に挑戦しても直ぐに放棄しています。アナログなんですね。
永沢さんの言う通り、芸術作品を味わうには「原則三十年の死後の洗礼」というようなこだわりがあって然るべきだとは思いますが、知に触れるための学習スタイルを日々アップデートしていく必要性を感じたところでした。