ラジオパーソナリティ的な日常-伊集院光とらじおとの番組終了について感想みたいなもの-
3月24日、TBSラジオ朝の帯番組「伊集院光とらじおと」が惜しくも終了した。
理由については話されていないが、昨年秋に突如ラジオ会を騒がせた伊集院光のパワハラ報道を受け、その事件をきっかけにTBSラジオ上層部が終了させることを決めたことは明確だった。
というのもその事件発覚まで、たびたび深夜のラジオでTBSの上層部について愚痴をこぼすこともあったからだ。
ラジオ愛が人一倍強い伊集院、さらにラジオ界のレジェンド永六輔や、大沢悠里、久米宏らから引き継ぐ思いもあっただろう、スタッフにある程度厳しい場面もあったことと想像するが、真相が伊集院の口から詳細に語ることは最後までなかった。
番組最後の日、いつものゲストコーナーには伊集院光が出演した。
パートナーの柴田理恵やアナウンサーの喜入から様々な質問が飛び交った。
「リラックスしてぼーっとすることはあるのか?」
「理想の老後はあるか?」
「いいラジオとは?」
伊集院は質問に次々答えていく。
「ラジオのことを考えている。」
「究極いえばラジオでしゃべれないことをやる気にならない。から犯罪をしないとも言える。」
「ラジオがある限り失敗も話にできる。無敵だと思ってた。」
ああ、わかるなとふと思った。
え?でもあんたラジオパーソナリティでもなんでもないじゃない。
そうなんだよ。もちろん私にはしゃべる番組は存在しない。
しかしなぜかいつからか、ラジオパーソナリティ的に日々を過ごしている自分がいる。
いつからだろうか、一人暮らしを始めた頃からだろうか。
思うに、日々過ごす中でこの話を聞かせた相手を笑わせたいという感情と、誰かとこの話の面白さを共有したいという思いが根っこに隠れてあるのだろう。
しかし別段しゃべる相手も存在しないし、この話をわかってくれる人などはなかなか見つけられない。
だから時間を超えて聴いてくれるであろう、見知らぬ誰かを想像してラジオパーソナリティ的に日々を過ごしている自分がいるのだと思った。
伊集院いわく、いいラジオとはたくさん詰め込んだラジオも面白いが、何も喋っていなくても面白いラジオもある。本当にそれぞれ違う。と。こだわりはそれぞれ違うが、他者にとってどうでもいいことに執着すること。がいい番組になる要素の一つだと言っていた。日常もそうなのだろう多分。