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『能』について、ちょっぴり語ってみた。
こんにちは、ぷるるです。
昨年の初観劇から、『能』にすっかり心奪われた私。
その熱は冷めることなく、今年も1月と3月に観劇をしてきました。
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さすがに3回目ともなると、あれこれ思いを巡らす余裕が出てきます。
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例えば「能、歌舞伎、オペラの違い」についてなど・・・。
意外にも『能&歌舞伎』より、『歌舞伎&オペラ』の方に共通点が多く感じられ、私は驚いてしまいました。
そんな素人視点の「ゆる考察」。
お楽しみいただけたら、幸いです。
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意識の切り替え方
舞台には、たいてい幕がありますよね。
私たちはこの幕により、日常から非日常へ意識を切り替えていると思います。
その点はオペラも歌舞伎も、同じでしょう。
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ところが「能」の舞台には、幕がないのです!
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客席の電灯が落ちたら、開演の合図。
まず唄う人(地唄)や楽器を演奏する人(囃子方)がそろそろ出てきて、定位置に座ります。次に役者が登場し、そろそろと物語がスタート。
やがて物語が終了し、役者→演者がそろそろ退出。電灯がついたら終幕です。
今は慣れましたがこの展開、最初はかなり驚きました。
能は日常から非日常へ、ゆるやか〜に意識が移っていきます。
はっきりした区別を持たせないのが、能スタイル。
私は毎回、『アハ体験』を連想してしまうのでした。
演奏者は何処に
舞台は音楽無くして成り立ちません。
でもオペラでは舞台の一段下にオーケストラボックスがあり、観劇者にはその姿が見えない仕組みです。
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歌舞伎は舞台上で演奏しますが、たいていは黒い御簾で隠されています。
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つまり演奏はあくまでサポート、黒子なんですよね。
ところが「能」では、舞台のど真ん中に楽器演奏者(囃子方)が陣取るシステム。
もちろん位置は後方だし、衣装も地味ですけどね。
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でも私の印象としては、その重要度が対等なんですよね〜。
能の囃子方は、決して黒子ではありません。
その理由は、担う役割の違いにありました。
感情を表現するのは誰?
「役者に決まってるじゃん」との意見もありましょう。
確かにオペラでは、役者がその感情を歌で表現いたします。
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歌舞伎では、役者が表情や台詞で表しますよね。
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ところが「能」では、感情を表現するのは演奏なのです!!
笛&大鼓・小鼓の活躍が、本当にすごい。
例えば今回見た演目「是界」は、中国の天狗が比叡山を襲うお話。
山場では、天狗VS高僧の熱いバトルが繰り広げられます。
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天狗の役者は舞や動きで戦いを表現しますが、お面のせいで今ひとつその気持ちは読めません。
YOU、怒ってるの?それとも高僧を恐れてる?
そこへ甲高い笛の「ピーーーーーーッ」という音色、激しい鼓の連打、合間に入る「ヨォ!」「ヨォヨォヨォォォォォ!!!」という掛け声!
これにより私たちは、天狗の気持ちを細かく感じ取れるのです。
「ああ、焦りながらもプライドゆえに引けないんだね」などなど。
先ほど能において、音楽は単なるBGMではないと申し上げた理由はこれ。
能では囃子と舞が、『対』となって物語を織りなしてゆくのです。
そう。北斗と南が力を合わせ、ウルトラマンAへ変身するように・・・
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不自由ゆえの自由
オペラについてはわかりませんが、歌舞伎には「型」があります。
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でもそれは全部のシーンではなく、演技の自由もあります。
そのため演者の解釈により、物語の味わいも変わってきます。
この「自由」は、現代演劇になるほど増しますよね。
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ところが能は、演者の動きや立ち位置など様式が決まっており、自由裁量はかなーり制限されます。「型」こそが命なのです。
なんだか息苦しそう・・・自由に慣れた私は見る前そう思っていました。
ところが実際は、逆に解放感があるのです。
これは演者が徹底的に「我」をおさえるからではないかと、私は考えます。
解釈を押し付けられないので、私たちは必然的に自分の内側から物語を呼び覚ましていきます。
幽玄の世界で己と対峙しながら、誰もがそれぞれの舞台を見ている。
つまり、演者の不自由により、観客こそが自由となっていたのです。
空即是色 色即是空
能にはこの精神が、深く溶け込んでいる気がしました。
今回私が書いたのは、舞台様式のことばかりです。
でも『能』が他の舞台に比べ、特異なのは確かな気がしました。
演目内容についても、いろいろ感じるところがありましたが、これを言葉にするには、知識が足らないと思います。まず能の歴史を知らなくては。
ああ、本当に能の森は深いなあ・・・。
とはいえ、まだほんの入り口。
うっかり迷ってしまわないよう、ゆっくり歩いていきたいと思います。
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*能観劇シリーズ The First *