「人生会議」で思うこと。
吉本芸人の小藪さんを採用した「人生会議」のポスターの発送中止を、厚労省が決定した。
私個人としては、炎上だろうがなんだろうが、そういった考え方や取り組みがあることが人の目について、まず知ることができる機会を作ったということにおいて、大成功だと思う。人の目について話題にならなきゃ、何も始まらないんだから。
ただ、死を目前にした人の心というのは想像以上に壮絶な過程を経る。それは本人だけでなく家族も同様で、例えば長く在宅で看ていて死を意識するようになっても、いざその瞬間を目の当たりにすると救急車を呼んでしまう、ということはざらにある。この件において追記しておくのなら、この行為自体は絶対に責められることではなく、むしろ病院でご家族が安心して看取ることができるのなら、是非呼んでほしいと思っている。(本人が満足できるかどうかは私には分からない)
今回ポスターに賛否があったことの一つに、今まで病気をしたことのない青年~壮年期の急変(ポスターを見る限りCPAか脳出血等だろうか)を想定したものなのか、高齢、あるいは継続して治療の必要があるような、あるいは既往歴のあるような方の急変なのか、受け取る側の意識の差もあったような気がしている。
若い人、病気をしたことがない人ほど、「自分が、家族が突然倒れて意思疎通が困難になる」という状況を想像しづらい。(まぁ当たり前だなぁ)死が、死がそこにある恐怖が、誰にでも平等に訪れるということを考えたことはあっても、実感する機会は少ないだろう。
ここで私は医療者、医療に近い人間(医療を受ける側、その家族を含む)と、医療から遠い健康な人間の強い乖離を感じた。当然と言えば当然なのだけど、この状態で「人生会議」と呈されたところで、医療から遠い人間だけが集まって適正な話し合いができるものなのだろうか。
たとえば、今まで病院にかかったことのない40代の男性がいたとする。一般的に言えば働き盛りであり、家庭があって子どももいたりするのだろうか。あるいは独身でも仕事に打ち込んでいたり、休みの日も趣味に興じていたりするのだろう。
その人がある日家族を集めて「人生会議」を行うと宣言する。
「俺に何かあっても何もしないでくれよ。言ってももう40代、人生の楽しいところは味わったし、いざという時の保険もかけている。子どもの成長が見られないのは悔しいけど、負担になるよりはましだ。」
家族は「わかった。じゃあ私の時もそうしてね」と返答をする。
ある日この人が職場で突然倒れ、病院に搬送される。診察の結果脳出血であり、意識が回復する見込みは低く、回復しても麻痺が残ったり、今後の生活に大きな障害を落とす可能性が高い。そう説明されても家族は「以前何かあっても何もしないでくれと言われました。でも回復する見込みが少しでもあるなら、できることはやってもらいたいです。子どももいるし、まだこの人を失いたくない。」という。
これが私のよく知る一般的な「何かあった時の」経過だ。さて、この男性の「何かあった時の定義」とはどこだったのだろう。
①倒れた時救急車を呼んでほしくなかった。
②病院で治療を受けたくなかった。
③一命を取り留めてもその先の延命治療を受けたくない。
大体の人は③と答えると思う。突然職場で人が倒れて、救急車を呼ばない人はいないだろう。運び込まれた先で、治療を施さない病院はないだろう。
そして男性も、そこまで想定して話し合いをした訳ではないだろう。
ただここで家族は「脳出血の結果倒れました」という情報と「今この状態ですが予断を許しません。今後何かあった場合はどう対応しましょう」という選択を同時に受け取り、選択することを迫られるのだ。以前何もしないでくれ、と言われていたとしても、とっさに「何も治療をしないでください」と選択ができる程、人は強くない。そして医療から遠く生きてきた人間ほど、こういった事態には即座に対応できるものではない。また、それは決して責められることではない。
そして何も治療をしなかった結果、寝たきり状態になって生き続けるということもあり得るのだ。
さて、健康なあなたに聞きますが、有意な人生会議できそうですか?
ここに医療と、医療から遠い人間の間に高い壁があるような気がする。
そもそも今の日本では、医療自体が「病院に行くことがない限り、触れることのない情報の塊」だと思う。もっと医療側から様々な情報を開示できるような場所を作ることができないかと最近ちらちらと考える。
例えば「人生会議」に医療者が参加できるようなスペース、例えば高齢者と同居している家族が不安を覚えた時にいつでも相談ができるようなスペース。死について、生について医療者の意見を交えながら今後のことを話せるようなスペース。
余談だけど、救急外来のいる病院にいると「90歳のおばあちゃんが3日前から食欲がない。」「施設から、寝たきりのおじいちゃんが熱がでた」と運び込まれてくるケースが多くある
医療者側すれば老衰では・・・と思うのだが、家族からすれば心配でしょうがないのだ。それだって責められることではない。でももうワンクッション、病院に来る前に「おそらくこれはこういうことが原因で今後こうなる可能性が高い。どうしていこうか」と話し、理解し、選択できるスペースがあれば、現在の高齢者への医療提供ももっと違ったものになるのかなと思ってしまう。
「私にとって命とは、ただ死なないためにあるものではないのです。ゆっくり話をしましょう。それくらいの時間はありますから。」
友人から送られてきた漫画の一コマのセリフが忘れられない。
私は、人生会議とは「死ぬための会議」ではなく「生きるための会議」であってほしいと思う。その人にとって生きるとは何か、何のために生きるのか、を元気なうちから話し合い、理解を深めてほしいと思っている。
日本の死生観は非常に貧弱だ。「生きているうちから死ぬ話なんて縁起が悪いからするもんじゃない」ではなく、「満足した死を迎えるために、自分にとって生とは何なんのか」という価値観を育て、理解し、家族や周囲の人間への周知を深めてほしいと思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?