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豊かさを感じるには、豊かさを定義するのが大事なのかもしれない
最近、子どもの通う学校のスタッフの方や保護者たちを見ていると、仕事の世界と自分の実現したい世界がグラデーションになって混じりあっている感じがあって、かくいう自分もグラデーションになりつつあって、そういう生き方・過ごし方って豊かな時間だなぁと感じる今日この頃です。
仕事と自分のやりたいことを両立されている方はたくさんいると思うんですが、グラデーションの感じってこれまであまり身近で見る機会がなかったんですよね。
これは自分が持つイメージの話なので、違うよ!という方もいると思うのですが、「両立」っていうと例えば平日はAをがんばってやる時間、休日はBの時間、というようになんとなくそれぞれの世界や時間が独立して存在しているイメージ。それぞれに注力する時間を分けていて、でも長い目でトータルで見れば両方できているよね、みたいな感じです。
一方で「グラデーション」は、そのAとBの垣根がある意味あいまいで、重なっているような、ぼやけているような、そしてそれすらも固定化せずにその時々によって動いているようなイメージがあって。
パレットの上で絵の具を混ぜるように、AにBを少し混ぜてみたり、Bの方にAを合わせてみたり、でもAにグッと向かう時があったり、Bに寄っていく時もある感じというか。
スイッチのON/OFFのようにパチパチ切り替えながら両方を成り立たせるのではなく、その時々の自分の状態や心地よさから、ちょうど良いあり方や距離感を見つけて取り組んでいくのって楽しそうだなぁと思ったりするのです。
で、そのどちらが良いとか悪いとかという話をしたいわけではなくて、最近自分はグラデーションや混じり合っている感じに対して「良いなぁ」と感じるのだけど、それは今この時点において「そのような過ごし方や生き方って豊かなことだな」と定義している自分がいるからなんだな、という話。
昨年の秋に、軽井沢のライジングフィールドで開催されたラーニングフェスティバルに参加して、そこで松波龍源さんの「仏教と豊かさの関係」というお話を聴いてきたのですが、いくつか印象に残っているお話があります。
・全ては因果関係で成り立っている。例えば"赤"を説明しようと思ったら、それではないもの("赤"ではないもの)との関係によってである
・つまり、因果関係・相対関係の上にある認識が、世界を作っている要素。苦しみから離れ、楽しみを増やすには、自分と外との関係性にどのような認知をかけるのかにかかっている
・"豊か"とは意味。知覚している認識の中に豊かさがある。豊かかそうじゃないかは感じるものであり認識するもの。
・"豊かさ"は余剰。余剰を確定させること、余剰として知覚し認識することが、豊かさの正体である。確定しなければずっと足りない足りないとなる。足るを知り、自分を足らせる。
昨年末ぐらいから、自分のこと・想い・考えを言語化する機会を意図的に作っていることもあって、自分にとっての豊かさってこういうことなのかな、というのがおぼろげだけどわかってきて、だからこそ感じたり認識できるようになってきたのかな、と。
今はテレビだけではなく、SNSやブログなどインターネットでもいろんな情報が流れてきて、情報に溢れている時代。
龍源さんが、「すべては因果関係・相対関係で成り立っている」と言っていたように、いろんな人のいろんな情報に触れれば触れるほど、その情報と自分とを比較し、自分の状況を良くも悪くも定義づける・意味付けてしまうことは一般的によく起きることなのかもしれません。
誰かの何かと比較して、相対関係の上にある認識を「いいな、自分は足りない足りない、もっともっと」と作ってしまったり。
外の情報がたくさん流れてくるそんな時代であるからこそ、周りがどうしているか、周りと比べて自分がどうか、ではなく、自分で自分の望んでいること、心地よいこと、自分がどういう状態であれば満たされる(豊かである)のかを自分自身が理解すること、定義すること。
それが豊かさを感じるためには大事なのかもしれないな、と最近思っている。
※写真は、自分が参加したラーニングフェスティバルのイベントで撮影されたものをお借りしています。