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阪神大震災を思い出す
30年前の今日、私は大阪の泉大津市に住んでいました。
当時、関西空港で働いており、その日は早番で、
朝5時に起きて出勤の準備とお弁当を作っていました。
5時46分
最初にものすごい縦揺れがあり、その後激しい横揺れがしばらく続きました。
一瞬で停電になり、食器棚から食器が落ちて割れ、
作りかけの弁当は揺れが止まったときには床に落ちてぐしゃぐしゃでした。
今までに経験したことのない地震にあまりの恐怖で腰が抜けたようにへたり込んでいましたが、
当時寮に住んでいたので、部屋の外が騒がしくなり、
恐る恐る部屋の外に出てみると
廊下にたくさん寮生が出てきており、みんなパニックの様子でした。
私は2階に住んでいたのですが、その揺れはものすごく体感的には
建物が横に倒れてしまうようなそんな恐怖でした。
何時間かして南海電車が動き始めたので、会社と連絡を取り
同じ早番の子と関西空港へ向かいました。
駅までの道は、ところどころ塀が崩れていたりして、
地震の激しさが伺えましたが、神戸の比ではありませんでした。
関空は海の上にあるためそんなに被害はなかったのか
通常通り空港内の店舗も営業し始めていましたが、
関空から見える神戸の街が大変なことになっていました。
炎も見えるほどの火災が起き、立上がある煙がくっきりと見えていました。
以外にも通常運転の国際線の乗り継ぎで降りてきた外国人の人達が
神戸を指差し、あそこで何が起こっているのかと、しきりに私達に聞いていました。
私達がつい何時間か前に大きな地震が起きたことを伝えると
みんな驚いて信じられないといった様子でした。
当時、携帯電話を持ち始めたばかりでしたが、
倉敷に住む両親から、しばらく連絡が取れず生きた心地がしなかったと言われました。
その後、何日か経った休みの日に神戸に住む同僚のお見舞いに
船で神戸へ向かいました。
高速道路や線路が崩れ、陸から向かうのが難しかったので、関空から出ている高速船に載って30分ほどで神戸に行くことができました。
神戸に降り立ち、同僚が入院する病院へ向かったのですが、
見たことのない景色に愕然としました。
まるで戦時中のような、建物はほとんど崩れ、焼け焦げた匂いに
同僚が生きていたのが不思議なくらいでした。
彼女は地震発生時、ちょうど浴室にいて、全壊の建物でも一命を取り留めたのでした。
たしか、お見舞いに入った病院も電気は通っておらず、
暗いボロボロの廃墟のような病室に怪我をされた人が並んでいたような記憶があります。
たくさんの方が亡くなり、私の記憶の中では一番胸が痛くなる災害です。
その後日本は、大きな地震が何度も続いていますが、
実際に体験したり、自分が関わっていないとその大変さとか、しんどさとかわからなくて、日々地震に対して備えたりということを怠ってしまいがちです。
関西大震災が起きて、日本という国が地震に対してちゃんと考えなければいけないということを皆に知らしめたのだと思っています。
あの年、生まれた同僚のお子さんはもう30歳。
あっという間の気もしますが、
長かった30年。
今では神戸も見事に復興されて
まるで何事もなかったかのように美しい街になっています。
どのくらいこの記憶を憶えていて
伝えていけるのかなあと、
今朝つくづく思い、考えています。