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『モテキ』を読んで
久保ミツロウ先生の『モテキ』を買って読んだ。
相応の年齢になったら買おう、と心に決めていた。
主人公と近い年齢になった今こそ、読む時だった。
その結果、感情移入の嵐。ライフはゼロとなった。
無事、脳が破壊されました。恐ろしい漫画だった。
良い意味で精神的に、読むのが苦痛だった。
特に主人公に対して共感したのは勝手に期待して、勝手に失望するという極端な自己嫌悪スパイラル。
思い込みが激しく、全てを悪い方向に考えてしまい完全に心を閉ざす部分が自分と酷似していた。
浅野いにお先生の『零落』とか『うみべの女の子』
などの作品も好きだ。何故なら、全体的な雰囲気が幻想的に描かれていたり性描写に現実離れした絵画の様な美しさを感じるからだ。ある種、綺麗で美化されている印象を受けるのに対して、『モテキ』はリアリティと生々しさが凄まじかった。なんて汚い世界なんだ、と思わずバッドに入りかけたのだが、それは自分が性を神格化してしまっているからに他ならない。世の中のリアルはこうですよ、と現実を突きつけられた気分だった。
主人公は失敗を重ねながらもその度に立ち上がり、前へと進む。やはり、成功体験を得るのは諦めない者、行動した者だけなのだ、と改めて感じた。自分に足りないのは傷つく覚悟なのだろう。その痛みに耐えられる自信などまるでないのだが。振り返ると全てにおいて傷つくのが嫌だったからこそ、行動が出来なかった。そんな自分を正当化する、やらない言い訳を考える能力が無駄に高いことも相まって、今日に至る。しかし、時間=鎮痛薬とはよく言ったもので、あれだけ忘れたくない、と願っていたことすらゆっくりと記憶から消えていく。『氷菓』的に言えば歴史的遠近法の彼方で古典となる。間違いを何度も繰り返してしまうのは忘れてしまうからだ。今の自分もきっとその段階にいるのだろうと思う。なんと、人間的なのだろうか。自分は鬱が酷くなるとスピリチュアル的思考になる傾向が強いのだが、そんな時『モテキ』を読んだことで、一気に現実へ引き戻された。リアルが退屈だと夢や空想に理想を投影してしまうのは現実逃避の域を出ず、根本的な解決にはならない、あくまでも現実を良くする努力をしなさい、と喝を入れられた気分だ。
"思い込み"や"決めつけ"が必ずしもそうである、とは限らない。という学びも得た。こちら側の想定通りのこともあれば、予想に反している場合もある。
結局、話をしてみなければ分からないことだ。
これまで悪い方向に考えて勝手に決めつけていた側の人間なので、そうなってしまう気持ちは痛いほど分かるのだが、案外そうじゃないのかも。人間関係の難しさはここにあるのだ、と思った。
いくら容姿を良くする努力をした所で懐に踏み込む勇気が無ければ意味はない。崖から飛び降りる覚悟のないイケメンと積極性があるブサメン、後者の方がモテる、という現実がある。ふざけるな、と思う反面、悲しいがその通りだとも思う。後者の人達は容姿以外の部分で活路を見出し、戦っているのだ。
ならば自分の強みは一体何なのだろう、と考えた。
残念なことに、殆ど無い気がする。割と絶望した。唯一、悲しみに寄り添うことが出来る点だろうか。
漠然とした寂しさを抱えている人、落ち着きのある人が自分のタイプであることは間違いない。強みを活かすことが出来る層とタイプが一致している点は不幸中の幸いなのかもしれない。果たして、これは強みなのだろうか?と疑問に思うのだが、もはや、そのフィールドで勝負するしかない。
長々と書いたが最終的に前向きな気持ちになれた。
心的負荷が強すぎるので二度と読む気にはなれないのだが、不器用は不器用なりに頑張りたいと思う。