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【短篇】空中楼閣
声も顔も名前も知らない人に、恋をした。
数ヶ月後、その恋は突如として終わりを迎えた。
出会いは彼女のブログを見つけたことだった。
淡々と過ぎる日々のことが記されていた。
"今日は雨が降っていて頭痛が酷かったけどバスから眺める風景は何だか心が落ち着いて好きでした"
"最近、体調が悪かったけど久し振りに友達と会って元気が出ました"
"この小説が本当に素敵で、とても癒やされました"
そんな文章が綴られていた。彼女の書く文章には、どこか淡白で憂いを帯びた温度が確かに存在した。
何とも魅力的だった。僕も、ブログをやっている。
ありふれた日常の日記を書いてみたり時には趣味で書いている小説をアップすることもあった。彼女に惹かれたのは言うまでもなく、僕の書く文章と非常に温度感が似ていたからだ。彼女のブログを読んでいると、何となく僕より歳上の様な気がした。
ハンドルネーム:紫乃
それが彼女の名前だった。本当の名前は知らない。
彼女の感性であれば、現実でも美しい人なのだろうと思う。いや、そうに違いない。もう、僕は彼女に対して大いなる理想を抱いてしまっている。声も、顔も、本当の名前すらも知らない。想像で補うことしか出来ない。それは、時間を経ることで際限なく膨張を続け、決して留まることを知らない。自分の大嫌いな人間が全てを嘘で塗り固めて彼女を演じていたとしたら、どうする。もしくはAIか。もはや、文字だけでは何も信じられない。その可能性はゼロではない。僕は、何時だって考えすぎてしまう。
そもそも、これは恋なのだろうか。
いつも彼女のことを考えている。僕の頭の中は常に彼女が支配している。彼女は知らないだろう。いや知っている筈がない。事実まだ始まってすらいないのだから。彼女のブログを発見して以降つまらない毎日に一筋の光が射した。たったひとつの楽しみで世界の見え方が変わる、ということを知った。
ある日、僕は勇気を出してコメントを残した。
どうしても彼女に僕の存在を認知して欲しかった。
本当に頑張った。送信を押す時、手が震えた。
何だか、仕事を終えた気分だった。
返信が来るまで、気が気じゃなかった。
翌日、彼女から返信が来た。
正直、内容など二の次で、返信が来た、という事実そのものが本当に嬉しかった。目に映るもの全てが光り輝き、それはもう色鮮やかに感じられた。僕はなんて単純な人間なんだろうか。
それから僕達はコメントを残し合う関係になった。
彼女は、僕の小説を褒めてくれた。
僕の日記に、何度も反応をくれた。
ただ、幸せだった。
この先もずっと、こんな時間が続けばいいな。
僕は、そう願わずにはいられなかった。
やがて、彼女のブログに少しの変化が見られた。
これは、明らかに自分のことを言っているだろう。そんな文章が増えたのだ。勿論、抽象的かつ曖昧に暈されてはいたが、きっとそうだった。それでも、勘違いをして恥ずかしい思いはしたくなかった。
だから、何度も彼女のブログを読み返した。これは
パズルのピースを埋める作業の様なもので、その先に確かな答えがある気がした。立ち込める深い霧を晴らしたかったのだ。
貴方の言う"貴方"が、全て僕のことならいいのに。
お互い、連絡先を交換しようとはしなかった。
その一歩を、僕は踏み出せなかった。
何も考えず、送るだけ。簡単な話だ。
そんなことはわかっていた。
現状に満足しているようで、していなかった。
ならば彼女が、僕と連絡を取りたくて仕方がないと思える程の文章を書けばいいだけの話だ。
そう思ってしまった。
何だか、意地になっていた部分があると思う。
昔から努力の方向性を間違えてしまうことが多い。
この時の僕は、この判断が後に取り返しのつかない結果を招いてしまうことをまだ知らない。
彼女に、想い人が出来たらしい。
久々に更新されたブログを読んで、それを知った。
もう、絶望的だった。世界の全てが闇に包まれ人々の笑顔は僕を嘲笑っている様に感じられる。もはや彼女の言葉は神にも等しかった。僕の中に存在する精神世界の天候は、彼女次第で大きく変動する。
僕は遥か彼方先で微かに揺れる蜃気楼の様な彼女を追いかけていて、その彼女は僕じゃない別の誰かを追いかけている。秒速5センチメートルの澄田花苗はこんな気持ちだったのか。過去、こんな僕を好きになってくれて、勇気を出してアプローチしてくれた十数人の女の子も、こんな気持ちだったのか。
そんなことに、今更ながら気づいた。
優しい言葉や気遣いは、時に凶器となり得る。
なら最初から僕のコメントを無視して欲しかった。
お願いだから、もう期待させないで下さい。
いや、期待も何も、全ては僕が勝手に期待して勝手に失望しているだけなのだ。これは自分の思い通りにならなくて駄々を捏ねている赤ん坊と同じ。僕の踏み出した一歩なんて、大衆からすれば一歩ですらなかった。重い足取りでは、差がつく一方だ。
僕は馬鹿だ。
時は流れ、また彼女のブログが更新された。
"結婚しました"
そんな文章と共に、結婚指輪の画像がアップされていた。はは、何だ。全部、僕の勘違いだったんだ。
天国から地獄とはまさにこのことを言うのだろう。
結局、僕の存在なんて彼女が主人公の物語における引き立て役に過ぎなかったのだ。所詮モブであり、ただの通行人。それと何ら変わりなかった。僕は、彼女にとって何の変哲もない風景の一部だった。
彼女の横にいる男なんかより、僕の方が彼女を理解している。そんな思いとは裏腹に僕は一体彼女の何を知っていたのだろうか。何も知らなかった。ただ知った気になっていた。僕が空想する彼女は、何時だって独りだった。寂しそうにしていた。勝手に僕と同じだと思っていた。実際は大きく違った。彼女は僕なんかより余っ程大きな一歩を踏み出し僕以外の誰かと光の中へ消えていった。幸せそうな笑顔を浮かべながら。これが、嫉妬という感情だったか。ずっと忘れていた気がする。まず客観的に見て僕は嫉妬する土俵にすら立っていなかったんだ。もう、恥ずかしさと怒りが混ざり合った形容しがたい感情だけが自分を支配していた。
愛は、一瞬にして憎しみに変わった。
この行き場のない感情を、小説にすることにした。
物語にすれば、許されると思った。
今、書かなければならないと思った。
今、書くことにこそ意味があった。
書き始めたら、止まらなくなった。
何日も寝ずに書いた。
食事することすら忘れて書いた。
ただ、無我夢中だった。
完成した小説の名は『空中楼閣』
一連の出来事を、余すことなく全て書き殴った。
もはや、自己満足だった。もう、それで結構だ。
そんな稚拙で、酷く恥ずかしい小説を血迷って賞に応募してしまったのだが、あろうことか賞を取ってしまった。今まで一度たりとも賞なんて取ったことなかったのに。大体そんなものか、人生なんて。
賞を取っても、意味なんてなかった。
最も褒めて欲しかった人は、もういない。
貴方となら死んでもいいと
僕の命が今も鳴いている
夜の散歩中、この歌詞によって僕は殺された。
声も顔も名前も知らない人に恋をした。
声も顔も名前も知らないまま、終わりを迎えた。
涙は出ない。何故なら、全て妄想だったのだから。そう自分に言い聞かせることしか、今は出来ない。
見上げた月は、悲しくて、寂しくて、綺麗だった。
〜END〜