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【短篇】マスター
高校二年の秋、僕はいつもと違うルートで下校していた。どういう訳か、そういう気分だったのだ。通ったことのない裏道や路地裏には僕の知らない世界が広がっていた。知らない世界を知る、という高揚感と同時に少しばかりの恐怖も感じていた。それを中和させてくれたのは通りすがりの野良猫だった。僕が近づくと野良猫は驚き、狭い路地裏へと消えていった。僕は野良猫を追いかけ、吸い込まれるように路地裏へと入った。
今思えば、これは必然だったんだ。
そこは薄暗い路地裏だった。汚れた室外機がガタガタと懸命に音を立てている。無機質なコンクリートの壁は一層冷たさを感じさせ、まるで異世界に来たかのような重苦しい雰囲気を感じた。近頃気温も下がり、日が落ちるのも早くなったので余計にそう感じるのだろう。
奥の方を見ると、この一帯で唯一オレンジ色の明かりが漏れている場所があった。好奇心から近づいてみると何やら喫茶店のようで、あたかも小説に出てきそうな、そんな隠れ家的喫茶店だった。どう考えても立地が悪い、果たして集客は大丈夫なのだろうか、とお節介ながら思ったくらいだ。
喫茶店の室外機の上に、先程の野良猫が丸まっていた。もう逃げる気配はない。喫茶店から微かに漏れる音楽が心地良いのか、目を閉じて気持ち良さそうに欠伸をしている。猫は呑気でいいな、と思った。一方で僕は高校生なりに沢山の悩みがある。それは人間関係だったり、将来のことだったり。本当は、テストが近いから早く家に帰って勉強しなければならないのだが、最近色々な出来事が重なってストレスが溜まっていた。ただ、現実逃避がしたかったんだ。気づけば、僕は喫茶店の扉に手をかけていた。
店内に足を踏み入れると、中は充分に暖かかった。
珈琲の芳醇な匂いが店内に漂っている。アンティークを基調とした内装は、僕が普段通っている古着屋に近い印象を受けた。年季の入ったテーブルやイスがより雰囲気を重厚なものに感じさせ、木の木目は底知れぬ安心感を与えてくれた。本棚には何やら難しそうな本が並べられている。ふと横に目をやるとアコースティックギターが置いてあった。店内にはジャズが控えめな音量でかかっている。なるほど、僕の好みが全て詰まっている空間だ。良い店を見つけたな、と思った。
店内には食器を拭いている高齢の男性が一人穏やかに佇んでいた。その所作一つ取っても気品が溢れているように感じる。きっと、マスターだろう。スーツが似合うダンディーな男性、といえば伝わるだろうか。まるで、絵画のような美しさを感じた。
「いらっしゃいませ。」
マスターが口を開く。見た感じ、六十歳くらいだろうか。白髪オールバックで無精髭を生やした細身の男性だった。一人で切り盛りしているのだろうか。店内に客は僕だけで、初めて入る店でマスターと二人というのは些か緊張するのだが、マスターの優しい微笑みがその緊張を和らげてくれた。
促され、カウンター席に座る。テーブルの上には、恐らくマスターの直筆で書かれたであろうメニューが置いてあった。僕はやっと最近ブラックが飲めるようになった。白状すると、カッコつけだった。
兎に角、大人になりたかったのだ。やはり最初は苦く、全く美味しいとは感じなかった。もはや苦行だったのだが、不思議なもので飲み続けていたらいつの間にか慣れていた。珈琲を、ブラックで。普段より声のトーンを落として、そう注文した。今の僕はそれがカッコいい、と思っているのだ。
「お待たせ致しました。」
注文した珈琲が到着し、早速口をつける。
温かく、美味しい。それは今まで飲んだどの珈琲よりも美味しく感じられた。深み、というのだろうか。豆なのか、マスターが培った長年の技術によるものなのかはわからないが、異様な飲みやすさを覚えた。
それから、マスターとは実に様々な話をした。この人には、何でも話したくなってしまう。そんな魔力がマスターにはあった。様々な話といってもその殆どは僕の人生相談だった。マスターは時折自身の経験談を交えながら優しく語りかけてくれた。人生の大先輩として、真剣な眼差しで話を聞いてくれた。
学校の課題で読書感想文を書かなければいけなくてアドラーの嫌われる勇気、という本を読んだけど、構図としてはまるで本の中に出てくる青年と哲人の対話みたいだな、と思った。
マスターに言われた言葉で、未だに忘れられないものがある。
「私も今の貴方と同じように、実に多くの悩みと向き合ってきました。案外、人生は何とかなるものですよ。貴方にも、きっとそう思える時がやってくる筈です。私と貴方は、よく似ています。昔の私にそっくりですから。だから、大丈夫です。」
お会計を済ませて感謝の言葉を述べ、僕は店を後にした。辺りはもうすっかり暗くなっていた。吐いた息が白い。今は、寒さすらも清々しい。帰り道、何だか足取りが軽かった。学校の授業よりも、ずっと学びを得た気分だった。
テスト期間を無事に終え、再びあの喫茶店に行くことにした。まだまだ、マスターと話したいことがあった。裏路地へ入り、歩を進める。今日は野良猫の姿は見えない。店の前に到着すると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
ただのコンクリートの壁になっていたのだ。
僕は軽くパニックに陥った。場所は確実に合っている筈だ。では、一体なぜ?頭の中に次々と疑問が湧いて止まらない。軽くコンクリートを叩いてみたりなんかして、これが現実であるということを確かめる。実際そこにいたのは数分程度だったのだが、体感はそれよりも遥かに長く感じられた。目の前がコンクリートである以上、引き返すしかない。また後日来てみよう、と判断して、今日は帰路に着いた。
後日そこへ訪れても、あの喫茶店は無かった。
それから定期的に訪れたが、現実は相変わらず。
まるで、狐につままれたかのような気分だった。
あれは、果たして夢だったんだろうか。
あの出来事から、一体どれだけの時間が経ったのだろう。気づけば髪の毛は白くなり、顔もシワだらけだ。随分と歳を取ったものだ。僕は、念願が叶って小規模ながら自分の店を開くことが出来た。マスターの淹れた珈琲の味を、どうしても忘れることが出来なかったからだ。偶然か必然か、自分の店の物件を探していると、あの店の場所が売られていた。これは運命だ、と思い、その場で契約を決めた。
それから早数十年、何とかこの場所で店を続けることが出来ている。
季節は秋、そろそろ雪が降りそうだ。店内を暖め、小粋なジャズをかける。食器を拭きながら、過去を思い返す。何だか最近明らかにその頻度が増えた。
感傷に浸っていると、店の外から足音が聞こえてきて、ハッと意識を取り戻す。
かつての自分が不安そうな面持ちで店内に入ってくるのが見える。ああ、懐かしいな。きっとあの時のマスターも、今の自分と同じ気持ちだったのだろうか。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ、と心の中で呟いた。
あれから、本当に色々なことがあった。
死にたいと思う夜もあれば、生きたいと願う夜もあった。人間の汚さを沢山見た。人間の美しさも沢山見た。数え切れない過ちを犯してきた。その度大勢の人に助けられて、今日に至る。マスター、貴方が言っていたこと、何となくですけど、わかりましたよ。今の自分は、きっとあの時のマスターと同じように穏やかな表情をしていることだろう。
マスター、次は、僕の番ですね。
僕は、大きく息を吸って口を開いた。
「いらっしゃいませ。」
〜END〜