![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172327240/rectangle_large_type_2_98e8e7ff94c6f554b7d5854ca2c664a6.jpeg?width=1200)
「もう一人の私」
車のヘッドライトが、降りしきる雪を帯状に照らした。
車はゆっくりと彼女の前に止まり、
彼女は何の不自由もなく助手席へ乗り込んだ。
安全な暖かな車内から見る雪は、ただきれいだった。
ガラスに張り付いたような景色を見て、また彼女には、あの「私」が顔を出しているとわかった。
彼女は瞬時に去年のことを想った。
たまにしかないこの地域の降雪は大ニュースで、昼頃には牡丹のような雪が舞い、18時に退勤して外に出ると世界は変容していた。ワクワクした。
去年は迎えに来る車はなく、バスはあったが、迷わず自転車に乗った。
凍えながら手の感覚がなくなり、大きな虫の群れを通り抜けるみたいに顔に向かってくる雪が、時々口に入った。
転びそうで、冷たくて、色々限界なのに、
雪で視界を遮られることが珍しくて、目と心はずっと踊っている気がした。
何とかペダルをこいで家に辿り着いたとき、雪だるまみたいになっていた。
それでもストーブに駆け寄らず、濡れた黒いスエード手袋の、色素が染みて青黒くなった指を、歳の離れた弟に見せてびっくりさせて、
そのまま家の前で大の字に寝転んだ。
地面から見る雪は、自転車で走りながら見る雪と違って見えた。
空は底知れなくて、雪たちは皆、全てを知っているようだった。
自分に降ってくる雪も、そうじゃない雪も、降りてくる場所を最初からわかっているように見えた。
いつもある音は雪に吸い取られて、心までしんとした。
彼は、いつも優しくて彼女をとても大切にしてくれた。
彼女も、彼のことは好きだし、知らなかったたくさんのことを教えてくれる彼を、尊敬していた。
彼の両親も彼女のことをとても気に入って、いつも歓迎してくれた。気取った感じもなく、わいわい楽しく、一緒に旅行に行ったりもした。
それは、すごく幸せなことだった。
でもそのうちに
「ここにいても、本当に幸せにはならない」と、「私」が言っているのがわかってきた。
彼女はそれを、しばらく聞こえていないことにして過ごしていた。上手くいっていた。
でも今夜、雪という非日常がそうさせなかった。
車の暖房で体が暖まるほどに、去年の雪の夜が恋しかった。
この「私」の存在をなんとなく知ったのは、彼女がまだ7、8歳の頃だった。上の弟はまだ赤ん坊で、彼女はいつも一人で遊んでいた。
友達の末っ子の弟がいつも皆から可愛がられて、お母さんにもべったり甘えているのを見て、なんだかひどく説明のつかない、嫌な気持ちが湧きあがった。
そんな気持ちになったのは初めてで、とにかく自分にびっくりして、なんとかして「キャンディキャンディのイライザみたいだ」と考えた。
キャンディキャンディは母の好きなお話で、彼女の家には全巻あった。イライザはとても意地悪な女の子だった。
そうして、どうしてイライザみたいな意地悪にはなりたくないのに、この気持ちは消えないんだろうと悩みながら、
頭ではなく、どこか遠くで
「イライザの気持ちを味わえた私」と、また違う自分がぼんやりいることに気が付いた。
頭と心は違うというのは、本にあったので知っていた。だから、
イライザみたいな気持ちになっている心、
それをイヤだと思っている頭、
あともう一人「味わえた私」と言ってるのは…誰?
ということになり、
この謎のおかげでイライザみたいな気持ちは消えたのだが、不思議は残り続けた。
それから少し大きくなったときに何人かの友達に聞いてみようとしたが、皆、そんな意地悪な気持ちになったことはない と、そんな感じの答えが返ってきたので、その先を話せなかった。
以来彼女は、これをもう一人の「私」とすることにした。
「私」の不意打ちは、これまでの人生の要所要所にあった。
木登りをして落ちてしまったときに、すごく痛くて気が遠くなりそうなのに、「こんな痛いことも味わえた」 と「私」がどこかで言っているのがわかったし、
その後右腕が使えなくて、必死に左手でノートをとっているときにも、「私」はどこかで満足げにいたのを、彼女は覚えている。
このおかげで彼女は両利きになり、中学のバレー部で活躍できた。
最後の総体では必死にプレーをしていると、相手コートが一箇所だけライトを当てたように見えた。そこを狙ってスパイクを打って、気が付いたら、仲間とこれ以上ないほどの喜びを味わっていた。
理由はわからないけれど、それは「私」のしてくれたことだと彼女にはわかった。
「それはちょっとわがままかもしれないよ」
寒さが和らぐ頃、友達に予想通りのことを言われた。
その頃いよいよ「私」の存在は大きくなっていて、交際が一年になり、彼の両親、特に母親に、ことあるごとに結婚を勧められるようになっていた。
こればかりは、体中の細胞がNO!!と言っているのがわかったので、いつも何となく誤魔化していたが、そのうちにその気がないのが伝わり、「私があなたの歳の頃にはもう1人目を産んでいたんだから」などと急かされるようになった。
そんなことを言われる度に、彼女の心は、当の彼からもどんどん離れていく気がした。
頭の中だけではわかっていた。これは多分世間の言う幸せだということを。
自分を産んでから二人の男の子を産み、どちらの両親も遠方で子育てが大変そうだった母のことを見ていたし、友達の彼の話からも、こんな人はなかなかいないということもわかっていた。
「安心し過ぎて、刺激がほしくなってるだけなんだよ」友達の言葉に、
それは、そうなのかもしれない。
だから何度も「私」の声は消したの。
でも、消えないの。
とは言えなかった。
春が終わる頃には、もうその声を無視できなくて、とうとう別れを切り出した。
予想もしなかったくらい、穏やかな別れだった。
彼は、明らかに傷付いて、それでも私の幸せを願おうとしてくれているのがわかって、心が痛んだ。でもそんな権利すらないのもわかっていた。
どうしてこんな風にしかできなかったのか。
どうしようもない気持ちで遅くに帰宅すると、かわいい歳の離れた弟がトイレに起きて、
「お姉ちゃん、おやつケーキあるんだよ」と寝ぼけた顔を見せた。
弟は、なぜとか理由もわからないくらいにかわいくて、抱きしめながら、どうして全てがこんな風に単純じゃないんだろうと思った。
何度目かの冬が来る頃、彼女は素敵な人に出会った。
賢くて、理知的な目元の人だった。一目で恋に落ちた。
彼はとても感性が豊かで、ずっと誰にも聞けなかった「私」についても不思議と話せて、話題も尽きなかった。
一年が過ぎた頃、彼は少しずつ変わっていった。
最初は彼女に、してほしくないことをやめるように言うことから始まった。それはとても小さな仕草だったりするのだけれど、言われてみればやめた方がいいように思えて、彼女は直した。
その数はだんだんと増え、伝え方も厳しくなった。
彼女は一生懸命直した。一緒にいたかったから。
突然不機嫌になることもあり、後で聞くととても理屈が通っていて、至らない自分が恥ずかしく思えた。
そのうちに彼女は、彼といると、自分がどんどんダメな人間に思えてきた。
ふとしたときに、こんなことをしたり思う自分だから彼を幻滅させてしまうのではと、彼目線で自分の欠点を探していることもあった。
それでも別れようとは思えなかった。
こんなに通じ合える人は他にいない。
この思いだけが、自分を縛っていることに、彼女は気付けなかった。
どうしようもない気持ちになると、自分の胸を、ドンッと叩いて持ち堪えた。
それから一年近く経ったある休日、彼のアパートで洗濯物を干していると、サンキャッチャーがキラキラと光って虹を作った。
それは彼女が、近くの雑貨屋さんの前を通ったときに、どうしても足が止まってしまい、欲しくて仕方なくなり、彼の家に飾った物だった。
その全ては「私」の仕業なのだが、その時の彼女は「私」からかけ離れてしまっていて、わからなかった。
その虹を目で追うと、ちょうど二人の写真立てで揺れて、ニッコリ笑う彼女の胸元にとまった。
偶然にも昨夜、写真立てのガラスが割れ、写真がむき出しになったせいで、光は反射されずに彼女の胸にとどまった。
彼女は座り込んで、ただ光を眺めた。
このサンキャッチャーを初めて見たときみたいに、動けなくなった。
遠くに預けていた何かを、思い出したような気がしていた。
胸にドンッなんて、している場合じゃなかった。
呆然として、涙も出なかった。
彼女の心は、どんどん思い出し始めた。
彼女の、ほんとうと思える場所を。
それからほどなくして彼と別れた。
その後はすぐに元気になる予定だったが、なかなかそうはいかなかった。
しばらくは乾いた気持ちが続いた。
それは、今季節が何なのか、頭ではわかっていても、それを自分がどんな風に感じるのかわからない状態だった。
それが終わってきた頃、今度は心がグシャグシャになった。
ある日は悲しくて、そうかと思うと、翌日は自分に腹が立って仕方なくなり、彼といた時のように自分のダメなところばかりを数えてしまい、自分が嫌いに思えた。
嵐の中を彷徨った。
嵐は、到底終わらないように思えたけれど、
季節が二つくらい過ぎる頃、ちゃんと終わった。
また季節は冬だった。
彼女は仕事を変え、駅までの道を歩いていた。
冬の朝の風が、彼女の白い頬を冷たく撫でていった。
頬は喜んでいると、彼女にはそれがわかった。
それ自体が喜びだと「私」がどこかで言ったのもわかった。
彼女は笑って、歌い出したくなった。
しない代わりに、自分のヒールの音に耳を澄ました。
彼女は、自分の足で歩いている私を、好きだと思った。
「私」もそれを望んでいると、強く信じられた。
また誰かと歩くかもしれないし、それは人じゃなくて仕事か何かかもしれない。
でも彼女はもう、誰にも私を渡さないと、
ちゃんとわかっていた。
▹◃┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄▸◂┄▹◃┄
読んで下さり、
ありがとうございました。
˙˚ʚᵗʱᵃᵑᵏᵧₒᵤ ɞ˚˙