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大都市にしかないもの
私は生まれも育ちも東京であるが、現在は1都3県外のA市に居住している。A市は県内で一定の中心性をもつ都市である。東京とA市は鉄道で1時間弱で移動でき、東京大都市圏内に位置づけられはするが、私が東京に戻ったことは一度もない。私の生活において、大都市との対面接触はなくなってしまった同然ともいえよう。それで失ったものもあれば、得たものもある。
大都市の魅力
大都市の魅力とは何だろうか。中心地理論によれば、より大きな都市ほど、高次の財やサービスを享受することができる。また、イノベーションの観点を踏まえれば、より大きな都市ほど、より多様で高度な人的交流などもなされ、新たなものが形成される。大都市で生まれた新たな文化は、階層的拡大伝播に従い、大都市から小都市へと拡大していく。その点で、大都市は先駆的で高価値なものを得られる場といえるだろう。
一方、最近は私は大都市の魅力を別の観点からも考えるようになってきた。大都市の魅力は夜にあるのではないか。仕事終わりに立ち寄る飲食店や余暇活動施設だったり、それらの施設のネオンだったり。日本の地理学でも「夜の地理学」としてナイトライフ観光の研究が蓄積されてきている(池田ほか2017; 杉本ほか2019 など)ものであるが、私自身はA市に引っ越してから生活の中で実感するものもでてきた。
A市都心の現実
A市は県内の主要都市であるので、都心にはオフィスビルや商業施設などが所在する。金融機関の支店も立地しており、県の二位都市らしさを感じるところもある。私の居住地からも比較的行きやすく、買い物などで訪問することも珍しくない。
しかし、A市都心、特に駅前は20時を境に一変してしまう印象をもつ。核となる商業施設が閉店する20時以降は、ふらっと立ち寄れるような施設はごく限られていると思う。飲食店すら、選択肢はそれほど多くはない(学生が気軽に払える金額の店舗は尚更)。何らの特別な措置でもとられない限り、東京都心では20時を境に居場所がなくなってしまうような状況は考えがたいように思うが、A市都心ではそれが現実のようにも感じる。都心は郊外から人が集まってくる地域のはずなのに。でもこの商業施設は昨年に再整備されたもので、20時までに関しては以前よりは改善してきたほうなのでもある。ただ、買い物は早い時間に済ませておかなければならないし、東京にはあってA市にはない店舗もあるなど、制約を感じることは多々ある。
A市副都心にて
引っ越してから1年弱経ったとき、A市副都心に訪問する機会を得た。私の居住地から行きにくいこともあり、訪問機会は限られていた。そのときは数日間、朝から夜までいて、現地での実習作業の傍ら、現地の景観を眺めるなどもしていた。
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A市副都心で私が好きなのは、夜の景観である。きれいに整備された道と歩きやすい環境、林立する高層マンションと、オレンジ色の照明。一定数ある飲食店と、ビル等の看板や照明など。A市都心とは異なる景観である。私の居住地と比べても居住環境はよいところで(そのぶん家賃も高いけれど)、現地作業をしているときに、将来このあたりに住めるのだろうか、相応の収入などを得られるのだろうか、などと考えてしまったこともあった。
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ただ、これは私の居住地と比較しての話であり、ここも東京とは全く同じではない。例えば、駅前は商業空間よりも居住空間の側面が大きい。そもそも、住宅地などの居住空間に部外者は入りにくい。
なぜ東京に戻らないのか
魅力のある大都市であり、かつ出身地でもある東京。ここまでで現在の生活圏に関する不満を述べてもいながらも東京への訪問を避けている状況なのにも理由はある。このご時世、安易に東京に訪問することは、某ウイルスという歓迎されざるイノベーションを受容し、戻ってきてから他者に拡散するリスクを高めることにつながる可能性がある。世の中には空間的拡散を促進してよいものと悪いものがある。そもそも、この手のウイルスにとって都市は活躍の場で、大都市にいる、行くこと自体がリスク要因である。さらに、私にとって、リスクを背負ってでも東京に行ってしたいこと、しなければならないことも特になかった。
その結果、私にとっては東京はニュースや論文などの文章や写真、映像、地図などを通して見かける都市ではあるものの、最早よその世界となってしまっている。
ある楽曲を聞いて
東京を離れてから丸1年くらいが経った頃に、ある楽曲のことを知った。その楽曲は、楠木ともり「narrow」である。ただし、ここではミュージックビデオに着目していきたい。
このMVの撮影地は東京の新宿の夜である。込み入ったビル街、ネオンが灯る街の中、店舗が集積した狭い道、踏切を通過していく電車、……。東京では複数箇所にある景観要素であるが、これらは私の生活圏ではみられない。さらに言えば、この楽曲の設定として路上ライブがあるのだが、引っ越してから私は路上ライブを見たことがない。実家の周辺の駅前などで時々見かけたような気がするものの。でも、ここで取りあげられているものは、今の私の生活からはかけ離れているものであるのは確かである。
MVの映像を見ていて、東京という大都市だから成立する景観なのだろうか、私のように東京から出て行った人にとっては失ってしまったものなのだろうか、私がいるのは東京とは違う世界なのだろうかなどと、いろいろ突きつけられたような感覚ももってしまった。東京ロス感もでてくるところもある。冬をテーマにした楽曲ゆえ、最初に聞いたときは本当に季節外れの歌なのであったが、あのときから半年以上が経ち、立冬を過ぎた今聞いてもそのような感覚が抜けることはない。
大都市で得られるもの
東京ではA市都心や副都心よりも人が多い。人々や店舗が密集した環境は、A市ではなかなか見られないように思う。また、東京でしか入手できない商品やサービス、人間関係などもあるはずで、オンラインでは得られないものも少なからずあるだろう。大都市だからこそ積極的に投資がなされ、高価値な空間となっている。東京に行かなければできないことも多い。だからこそ人が集まってくる。一方、私はそれらから距離を置き、目を背けている状態ともいえる。
仮に東京の大学に進学し、今も東京に住んでいたら、今頃どのような生活を送っていたのだろう?良くも悪くも、現実の私の生活とは大きく異なっていたのかもしれない。しかし、一度離れたからこそ、今まで自分にとって当たり前すぎて認識できていなかっただろう、東京という大都市の価値に気づくこともあったのかもしれないと思うこともある。
ヘッダー画像:東京・上野のアメヤ横丁にて(2020年1月筆者撮影)。筆者の手元にあった、数少ない東京の夜の写真から選んでみた。