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『おおきな木(原題:The Giving Tree)』。私のバイブル。

絵本が好きだ。
作者ごとの特徴が出る独特な絵も好きだし、子供でも読みやすい短い物語も好きだし、わかりやすくシンプルなメッセージ性も好きだ。

幼少期、片親で学童保育に預けられていた私は、施設の絵本を全て読んだ。『ミッケ!』も『ウォーリーをさがせ!』も、とにかく絵本と名のついた物は全て読んだ。ついでに『ドラゴンボール』と『うしおととら』もその時に読んだ。

今となってはそのほとんどを忘れてしまったが(なんならDBもうしとらもあんまり憶えてない)、一方で今なお心に在り続ける絵本もある。

『おおきな木』。原題、『The Giving Tree』。直訳すると「寛大な木」という感じだろうか。
Shel Silverstein作のこの絵本は、本田錦一郎訳版と村上春樹訳版があり、近年では後者の方が一般的であろう。
幼少期にこの絵本を読んだ私は、この木のようになりたいと思ったものだった。

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•『おおきな木』あらすじ
物語は一本のりんごの木の視点で進む。

りんごの木には仲のいいちびっ子がいて、毎日のように遊んでいた。
しかし、ちびっ子は成長するにつれてあまり木と遊ばなくなっていく。

ある時、青年になったちびっ子が久しぶりに木に会いに来て、「お金がほしい」という。木は自分のりんごを街で売ってお金にするといいと言い、青年はリンゴを一つ残らず取って木の元を去る。

その後しばらくして、大人になったちびっ子が木に会いに来て、「家が欲しい」という。木は自分の枝で家を建てるといいと言い、男は枝を全部持っていってしまう。

その後またしばらくして、初老になった男が木に会いに来て、「船が欲しい」という。木は自分の幹で船を作るといいと言い、男は幹を切り倒して持っていってしまう。

長い時が経ち、老人になった男が木に会いに来る。切り株になってしまった木は、「私にはもう何もあげられない」という。男は「もう大して欲しい物はない。ただ静かに休む場所が欲しい」という。それならば、と木は自分に腰掛けて休むように言う。
男は切り株に座って休む絵で物語は幕を閉じる。

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この物語を読んで、木を愚かだと思う人もいるだろう。
自分の果実を、枝を、幹を、全てを捧げ、その度に男はどこかにいってしまう。男はお礼の一言すらいわない。
見返りを望めない相手のために自分を犠牲にする様は、第三者の目からは愚かにも映る。

これについて、日本語訳を担当した本田錦一郎氏は、あとがきでエーリヒ•フロムという哲学者の言葉を引用している。

愛とは第一に与えることであって、受けることではない

エーリヒ•フロム

そして「与える」というのは、なにかを断念したり、奪われたり、喪失したりといった負の感情が伴わない物である、とも述べている。
作中、木が自身の一部を男に与えた後には必ず「きは それで うれしかった。(And the tree was happy.)」という文章が入る。切り倒されて切り株だけになってもなお、与える喜びを失う事はなかった。

一箇の切株になっても、なお「与える」ことを忘れないりんごの木に、言い知れぬ感動があるなら、その感動こそ、「犠牲」ならぬ真の「愛」のもたらすものにほかならないのである。

本田錦一郎『おおきな木』あとがきより

真の「愛」、なんて言葉は少し美しく言いすぎているとも感じるが、「無性の愛の美しさ」、「与える喜び」、そして「報われる幸せ」を私に教えてくれたこの絵本は、私の生涯ベスト絵本の一冊であり、人生のバイブルの一冊である。

私もこのリンゴの木のように美しく生きたいと思う。そしてもし、私にとってのリンゴの木に出逢えたら、いつも一緒にいたいと思う。

ちなみに。
幹を切り倒された後のページには、原文は

「And the tree was happy… but not really.」

と書かれている。
直訳すると「木はそれで幸せだった…が、本当(の幸せ)ではない」となり、「与える喜び」より「喪失感」が強くなってしまっている事を表現している文章なのだが、本田錦一郎氏がこれを

「きは それで うれしかった… だけど それは ほんとかな。」

と訳しているのに対して、村上春樹氏は(うろ覚えだが)

「木はそれで幸せ…なはずありませんよね。」

みたいな訳をしていて、解釈の幅や情緒を台無しにしているように感じたので、これから読む方には本田錦一郎氏の訳をオススメする。

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