おにとわたし
どうも、ひなたです。『×卵通信6回目』です。
かーなーりお久しぶりですが、いけしゃあしゃあと再開します
その昔「鬼ってなんだと思う?」聞かれたことがありました。
お、なんだ禅問答か?
ちなみに聞いてきたのは経済学部、聞かれた私はコミュニケーションなんたらっていうような学問をしている学生。鬼っていえば桃太郎かな、いや確か一寸法師にもいたし、金太郎もそうだっけ?
「鬼ってね、他から来たって認識したもの全部のこと」
シンキングタイムほぼゼロで答えを聞かされました。
せっかちな人です。
「そもそもさ、正義なんて人の数だけあるじゃない。悪いことしたって、それは語り部側の言い分。もし自分が桃太郎が来た鬼の村に住んでいたら桃太郎を稀代の悪人として語り継ぐよね」
そういえば鬼嫁って言葉はあっても鬼婿とは言いません。
婿ならばもらった時点で家のシステムに取り込んでしまうが、嫁ならば外部のものとしていつでも排除できる、替えがきくんだぞ、みたいな意味合いもあるのかな。そんなことも頭の片隅でぼんやり考えていましたが、結局それ以上話は続きませんでした。
理由は簡単。別れ話だったんです。
さて、日本語は主語がなくても会話が文章がなりたつ言語です。むしろ主語が重なるとアホっぽくなります。自分の子供の頃の作文とか読んでしみじみそうなりました(物持ちがいい)。
ところが便利でスマートな反面、この主語が消えることによって思わぬダメージを受けること、ありませんか?
「みんなが」「私じゃないけれど他の人は」
主語でかすぎてもう誰が言ってるのかわからない!
「配慮がたりない」「察して」「地雷だわ」「自衛もできないの?」
後者ふたつはネットスラングです。主に二次創作における好みの問題を語られるときに使います。前者は日常でも使いますが多様すると「お気持ちわかってくれないひと」扱いされます。
いや、知らんがな。こちとら武器仕込んだ覚えない。好き嫌いを小馬鹿にされるのは「きぬさやが苦手。なんか歯ごたえがくにゅっとするから」と答えて小学生にゲラゲラ笑われながら、目の前で食べられたことで最後にしたい。
配慮と察し。これは自分が主語ならいいです。でも誰かに対して使うと、途端に無理矢理他人を変えようとする言葉になる。
耳障りがよく責任感が薄まるのでついつい多様してしまいがちですが、使い方によっては結構な破壊力になります。
うむ、日本語ムズカシイ。
賢そうに言うならば「覆水盆に返らず」
あの時鬼の話を静かな声で語ってくれたひとが今何をしているのかはわかりません。
「私が」察し、配慮すれば。
「私の周囲が」ではなく「私の」考えとして話していれば何かは変わったかもしれませんが、変わっていなかったかもしれません。
ただわずかばかりですがこの季節になると思い出します。
鬼になってしまって、ごめんね、と。
もう顔も覚えちゃいませんが(笑)
今日は124年ぶりに節分が2/2になったそうですが、時節柄祓いたい鬼を祓う行事もあちこちで自粛自粛自粛、と見聞きしました。
そんなだからかな。すこーしだけですが、鬼になっているひと、なりそうなひとを見かけることが増えました。
ネットもそうだけど、リアルでも顔半分隠しちゃってるから余計に化けやすいのかな?
たとえば英語のように『I』『You』がなくては成立しない言語を使っていれば鬼にならずに済むのでしょうか。自己主張が激しくても日本語として少々おかしくても「私」と「あなた」の境目をきっちりとつければ、どちらもひととして向き合うことができるのでしょうか。
私のようなものが考えたところで、でる答えでもないのですが、考え続ければ悪鬼滅殺、とまではいかなくても、独特の優しい発音と多すぎる表現力をもったまま、日本語が、使うひとたちが流れ変わっていければいいな、なんて思っています。
例えば、次の2/2の節分、正直いつかは知りませんが(調べていない)の頃とかにね。
鬼っぽい画像をさがしていたら、ガラケー時代のファイルに紛れ込んでいました。なんだこれ、めちゃくちゃ怖いんだけど……。
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