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離婚という言葉が頭に浮かんだことは何度もあった

離婚を考えたことは過去に遡っても何度もあります。

そもそも元夫との結婚の経緯ですが、元夫からかなりの猛アタックを受けて、私が根負けして結婚に至ります。

私は当時バツイチになったところで、いろいろ傷つき疲れきっていました。
ま、いいかこの人で・・みたいな、今思えばいろいろ突っ込みたくなります。

当時の私は本当に浅はかだったと思います。一度、結婚に失敗していたくせに何も学習できていなかった。
相手の家庭環境だったり、相手の年収を調べることだったり、自分の両親の意見を聞いてみるとか、もっともっと結婚には慎重になれば良かった。

1番最初は結婚当初

あなたの実家では絶対に暮らさない。
実家で同居と言い出した時には離婚、と結婚への条件を出しました。

元夫は田舎の農家の長男です。
元夫の地元では長男夫婦は同居するのが当たり前。そして田舎独特のかなり癖の強い地域でした。

家に鍵を掛けない(そもそも鍵が無かった)、留守中の来客のために客間に茶菓子を常に置いておく(勝手に入って食べてもらうためらしい??)、冠婚葬祭は無駄に派手、近所中が親戚だらけ・・
転勤族でドライな環境で育ってきた私には到底無理と思ってしまう環境でした。

元姑はバツイチである私のことを恥だと言い、「家に近付くな」と出禁を言い渡してきました。
むしろ、それは私にとって好都合でしたけれどね。

余談ですが、結婚してすぐに私は妊娠します。
それを知った元姑は、勝手に実家の増築を始めていました。

あと1か月で出産という時、出禁の私に「そろそろ来てもいいわよ」と言い、なんだろうと思って行ってみると、「ここはあなたたちの住むところよ」ですって。
既に建物は半分くらいできていました(←もちろん一度も住んだことは無く、恐ろしく片付けができない元姑の倉庫と化しました)

私の両親も元姑の失礼な発言には相当怒っていました。
私の両親に対しても、普通そんなことを言うか?ということを平気で言っていましたからね。
私の両親は元姑が急に態度を変えてきたことにさらに怒っていました。
まずは私や両親に頭を下げるところからではなかったですかね?
表向きには和解ムード?を演じていましたが、私も両親も本心は許せないままでした。

そしてこれも完全に余談ですが、第1子が無事に産まれると・・・
私たちの結婚祝いも兼ねて(というのは完全に後付けの理由だと思いますが)第1子のお披露目の宴を、どこの誰だか分からないレベルの遠い親戚まで招いて盛大に行われました。
元姑の完全自己満の宴なのに、産後間もない私はコンパニオンとして働かされました。「ほら、あそこ、グラスが空いているから挨拶しながら注いで回りなさい」と。
見るに見かねた親戚の方が「あなたは休んでいて」と助けてくれましたが・・

元義理実家については、いくらでも話せます(笑)

次は結婚4年後

当時、子どもは2人で、3歳と1歳。
母が希少ながんを患い、闘病生活が始まりました。5年生存率1桁の大変厳しい病気でした。

母の闘病を支えるために、幼い子たちを連れて自宅と実家を行き来する生活になりました。
ある日、元夫が言います。
「またか?そんなに度々行く必要あるんか?」「俺のメシは?」「どうせ大したことないんだろ」と。

この時から、私は家を空ける時は、空ける回数分の元夫の食事を作り、冷凍保存するなどして出掛けるようにしました。
少しでも文句を言われないようにするために努力したつもりです。

母が骨髄移植を受けたことも当然知っていたはずです。骨髄移植を受けるということが、どれだけのことなのか・・
母の病状を気にすることは全くありませんでした。

この数年後に、難病を持った第3子が産まれてくるのですが、この子の病気についてもほぼ関心を持つことはありませんでした。
自分のことが1番で、思いやりの心に欠ける、親になりきれていない、そういう人間だったんですね。

母はがんの発覚から1年で亡くなりました。
その時、元夫は「もっと(母のところに)行かせてやれば良かったな」と言いました。
何言ってるの?今頃そんなこと言ったってもう遅いんだよ・・

その時、私は思いました。
もしもあなたの母親が同じような状況になった時、同じ目に遭わせてあげる。私は何も協力しないから。

そして、もしも私が何かの病気になった時、きっと同じような目に遭うんだろうなとも思いました。
病気のことに関心を持たず、体調を気遣うのでもなく「俺のメシは?」って平然と言うんだろうな。

私はこの頃、心のバランスを崩し、体調不良になっていました。最愛の母を突然失った悲しみもありましたし、幼い子たちを抱えて完璧な看病(母が入院中の実家の管理も含め)をしなければと少し無理をしすぎていたのかもしれません。
ふとした瞬間に死ねたらと考える。思考力が無くなり何の段取りもできない。どうやって食事を作ったら良いかも分からない。体が重すぎてパジャマから服に着替えることもできない。幼い子どもたちに何か食べさせるために、なんとか着替えて近所のスーパーに菓子パンを買いに行くのがやっとな状態でした。

「少しおかしいかもしれない」「病院に行きたい」と元夫に相談したのですが「気持ちの問題」「甘え」と取り合ってもらえませんでした。自力でなんとかするしかない。かなり時間はかかりましたが根性で乗り越えました。
老後は絶対にお1人様になろう、そう決めました。

結婚13年以降、我慢の限界に徐々に近付く

そしていつしか、老後まで待てない、1番下の子(第4子)が成人したらと思うようになりました。
「成人したら」の根拠は、親権問題で揉めたくなかったから。経済力の無い私は親権を持つことができないのでは?当時そう思っていました。

ところがとうとう、1番下の子(第4子)が成人するまでなんて待てない、本気で家を出ようと考えて動き始めたのが、コロナ禍の真っ只中のことでした。


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