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圏論における「射の等しさ」

(※当方圏論は完全素人なので、間違いがあったら申し訳ありません)

以前から圏論に関して気になっていた「射の等しさ」に関して。

「圏論勉強会 第1回」というYouTube動画があります:

 この動画で恒等射に関する一意性に言及しています。

恒等射の定義は、任意の$${f:A\to B}$$に対し、下の図を可換にする$${1_A}$$です:

図1:恒等射に関する可換図式

恒等射$${1_A}$$が一意であることは、仮に2つの恒等射$${1_A,1'_A}$$があるとして、下図の可換性より証明できます:

図2:恒等射が一意であることの証明のための可換図式

これが可換なら$${1_A=1'_A}$$なので一意です。

これに対し動画で以下のような質問があがりました:

「対象Aから対象Bに向かう射は一般には1つとは限らない。恒等射の場合は対象Aから対象Aに向かう射である。ならば恒等射も複数あってもよいのでは?」

質問者の気持ち、私にはよくわかるのです。これは結局、domとcodを定めても射が複数あるとするなら、同じdomとcodをもつ射$${f,g}$$に関する等式$${f=g}$$とは一体何を指すのだ?という疑問に起因しているように感じます。

これに関しては、例えば

でも質問・回答されています(あんまり私はこの回答を理解してないです。これに疑問を持つ人がいることを示すために引用しました)。感覚を掴むため、ここでは具体例でこれに関して考えます。

例えば$${A}$$を「家」として、射を「移動すること」だと考えます。このとき恒等射$${1_A}$$とは「家から家に移動すること」となります。しかしながら、家から家に移動するにも様々な場合があります。一度公園に寄ってもいいし、郵便局に寄ってもいいです。上記の質問をした人は「$${1_A}$$には『家から家に公園経由で移動すること』と『家から家に郵便局経由で移動すること』のように違う移動の仕方がある。よって$${1_A}$$は一意ではない」と考えているんなんじゃないかと思います。

しかしこの立場だと図1において$${f\circ 1_A=1_B\circ f=f}$$を満たしません。

例えば$${B}$$を仮にコンビニとします。上の話では公園経由と郵便局経由を区別しています。すると、$${f}$$を「移動すること」として、$${f\circ 1_A}$$には以下の2つがあります:


(あ):「家から家へ公園経由で移動し、その後家からコンビニに移動する」

(い):「家から家へ郵便局経由で移動し、その後家からコンビニに移動する」


一方$${1_B\circ f}$$には以下の2つがあります:


(う):「家からコンビニへ移動し、その後コンビニからコンビニへ公園経由で移動する」

(え):「家からコンビニへ移動し、その後コンビニからコンビニへ郵便局経由で移動する」


質問者の立場では、例えば(あ)と(え)は違う移動の仕方です。ということで$${f\circ 1_A=1_B\circ f=f}$$は成立しません。
(そもそも普通の感覚では$${B}$$として公園や郵便局を採用できる気がしますが、それは気にしないことにします)

$${A}$$から$${A}$$に移動することを恒等射とみなすには
「家から家へ移動し、その後家からコンビニに移動する」
ことと
「家からコンビニに移動し、その後家から家へ移動する」
ことは、経由地を気にせず対象への移動のみに着目すればどちらも
「家からコンビニに移動する」
になる、という「見做し」が必要です。同じことですが「$${A}$$から$${A}$$に移動するとは(移動の結果だけ見たら)何もしてないのと同じこと」という見做しが必要です。

これはあくまで「『同じ』の捉え方」の問題なのだと思います。もしもあなたがどこかに移動するとき経由地として公園を特別視するなら、そのような"邪念"は払うか、または経由地を公園に制限するなどしなければなりません。

もっと言えば、あなたが移動中にすること、例えば電話をすることを特別視し、電話をするか否かで移動手段を区別するなら、やはり$${f\circ 1_A=1_B\circ f=f}$$は成立しないわけです。

しかし「$${A}$$から$${B}$$へ移動すること」という観点からすれば、ふつうその間に何をしているかは気にしないです。$${f\circ 1_A=1_B\circ f=f}$$は「$${A}$$から$${B}$$への移動という観点に関係ないことは気にしない」という条件の下成立します。

おしまい。$${{}_\blacksquare}$$

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