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蛙化現象について

ウエディングプランナーの仕事で定期的に届くニュースレターがあるのだけど、そのなかにこの話題があった。
結婚式とカエル。。。まあそれはともかく、z世代が現場の中心になってきている婚礼業界と蛙化現象はどうやら無縁ではないらしいのだが、今回はその件はさておき、蛙化現象が起きる背景について思うところがあったから書いてみた。

蛙化現象については、大好きな枝豆順子さんとドリアンさんのショートで取り上げていたときに見て、ずいぶん前にその言葉を知ってはいたけど、(このおふたりの反応がまたおもしろかった)わたしはそれ以上特に気にすることはなかった。

なのに今日、いつもはあまり熱心に読まない(こらっ)そのニュースレター(すいません)の、蛙化現象コラムになぜか釘付けになり、いっきに読んだ。

その現象自体がどういうものかは、ネットで調べればすぐ出てくるから敢えて書かないけど。


コラムは素晴らしかった。的を得ている内容でよかった。
わたしが蛙化現象について考えるきっかけになった理由として前置きしたかったので、それがそのコラムだったんだよという説明に過ぎません(^^♪

言いたいのは、蛙化現象そのもののことです。
結論、これは教育の結果だなというのがわたしの感想だ。
それと社会全体的な空気。

xでもちょっとポストしたけど。

要するにこれはなんでもかんでも減点方式で人を正誤でジャッジする日本の教育システム、それをうけて社会に出てきた世代のかたたち特有の「人の目を気にする」あの感じ、そしてそこからくるのが、
「自分の思い通りじゃないとその対象物(人であれものであれ)にバツをつける」という流れにつながるのではないかな。

そして。
こここそにものすごーーーーーく怖い問題点が潜んでいると感じる。

この「自分の思い通り」が本当に「自分」なの????というところ。

自分の思い通りってなに?
それは「人の目からみたときにかっこわるくない自分」ではなくて?
本当に腹の底からの自分の声のこと??だったら百歩、いや100億歩くらい譲ってまあ聞かないでもないけど。(それでもジャッジに変わりはないから)

SNSやネットのあらゆる場面で、教育で、教科書で、
「こういうことが正しいです」
「こういう人はかっこわるいです」
「こういう姿が模範です」(=みんなと一緒です)
「みんな一緒に道から外れないように生きましょう」
みたいな空気にそまってて、ちょっとでも「個性」を出そうものなら途端に
まわりから「変わってる」とか思われたり。

「自分」がない。
自分だと思ってるのはただの模範解答。
道から外れないための、人の目を軸にしたもの。

そして。減点方式に浸食されてきてるから評価は厳しめ。
でもこの評価すら「社会全体からみたときのジャッジ」が基準だったりして。
自分がそうだから相手にもそういう目になる。
そして相手も自分に対して厳しめであろうと予測して付き合うから自分の行いもどこか模範的。
批判されないように恐れながら生きてる感じすらする。
だからおのずと「自己肯定」が下がる。
誉められるのさえ「誉めればいい」という模範解答のうえに成立している空気をお互い感じながらいる。

根本的なことから歪められてしまったと思わずにいられない。

人は本来、「違う」のが当然すぎるほど当然のことなのに。
そして誰も誰かを「ジャッジ」などできない。
人はみんなそれぞれでよいのだから。
そもそもそんな基準は誰が決めたのだろう。
誰かの都合が良くなるように決められたのがルールだとしたら、そのルールってなんだろう?

人をすぐ決めつけずに。
その「あれ?ちょっと違う」ってところこそが、その人の魅力であり人間性。それはね。男性にも女性にも同じだ。
なんかこの蛙化現象って女性優位な感じで進んでるけど。
なんで女性だけがそんなにジャッジできるの?
そこも違和感。まあこれも〇通の洗脳に過ぎないけど。

人をそのまま受け入れる心。
良くも悪くも認める強さ。
ジャッジしない自立心。
それが備われば、この妙な現象は消えると思う。











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