創作メモ
穴部瑠璃に登場する忍者だが。
一応設定上、彼は本来山伏であり修験者だ。しかも真言呪で身体強化が可能な験力を持つガチめの修験者である。しかしこれが役小角じみたパーフェクト修験者の場合、こいつが出た時点で物語が終わってしまう。故にどこかしら抜けていて狂言回しになって貰わねば困るし、上手いこと江戸川や瑠璃と絡んでもらわねば、困る。
更にいうと彼の立ち位置が説明困難なんだな。一応島津本家に出入り可能な修験者だが、禄を食んではいない。フリーランス修験者で、期間雇用(案件ベース)で忍者働きをするが普段は修験者であると。
「岬の小高くなった岩場に立つ修験者がいた。鋭い目で村を眺めるその目は厳しく、まるで講談に出て来る忍者の様で、実際今は忍者だった。お殿様に申し付けられて神隠しにあった美男美女の行方を追う忍び働きをしている所である。京や大阪、江戸であれば忍者というのは様々な職業の人々に擬態しているものであるが、島津藩では様々な局面で修験者による加持祈祷や占いの類を用いる為、出入りの修験者を家臣としていた。その修験者が時と場合により忍者となったのだ。つまり当地の忍者とは任務を得た修験者である。そしてこの修験者、実際験力を使う(本人談)
それは他者から見ると単なる怪力である。膂力は軽く三人力で、米俵を三俵担いで山に登る。当人は験力じゃ神仏の加護じゃと触れ回っているが、世間では単なる馬鹿力と看做している。当人は不本意ながら自らを「少々ものを知らぬ」と評するが……人間誰しも自尊心があり、実のところ彼はかなりの馬鹿である。例えば、死んだバァさんに経を上げてくれと乞われて大変短い般若心経を上げた際……色即是空空即是色の後に続く文言をド忘れした。シクシクと皆が涙する葬式の最中に突如止まった読経の声に、親戚一同が何事かと目を見開く中……修験者は改めて「色即是空 空即是色、そらまぁそうだ、そらそうだ」と読み上げた。一同は涙で濡れた顔を上げて口を押さえた。堪らなく可笑しかったのだ。背後の雰囲気を感じ取り修験者が振り返る。そしてまじめくさった顔で「泣くか笑うかどちらかにせぇ」と一同を注意する。まず、孫が吹き出した。それに釣られて子供達が腹を抱えて笑い、遂には全員が大爆笑。修験者は内心「やらかした!」と冷や汗をかいたが、この手のやらかしは彼にとって日常茶飯事である。まじめくさった顔を崩さず「笑うことにしたか、それで良い。皆が悲嘆に暮れていては婆様も成仏しにくいだろう」と言い訳をした。
ハッと顔を上げた大人たちに尊敬の眼差しが戻ったのを認め、修験者は経文の途中をすっ飛ばし、ギャアテイギャアテイと強引に般若心経を締めた。受想行色 亦復如是から即説呪曰までのお経の2/3をすっ飛ばしていい話風にまとめ上げたのである。この話に尾鰭が付いて、死んだ婆さんがお経が終わると微笑んでいただの、供えた菊花が皆花開いただの……噂の一部は修験者自らばら撒いたものだが……彼の名声は一気に広まった。自尊心は守られたのである。」
修験者の名前は知られていない。年の1/3から1/4しか里に降りてこないこの男、自ら名付けた呼び名を度々忘れてしまうのだ。昨年は猫行者(名を問われた時に黒猫があくびをしていたからだ)、その前は三十郎(三十年祭に呼ばれたからだ)、今は忍者働き中なのでオシの行者と名乗っている。つまり忍行者。全く忍んでいない。
彼がこの村に来たのも、美男美女が神隠しに遭っているので調べよとの命に対して、深く考えずに「美男美女が神隠しに遭うならば、美男美女がいる村に行けば誰か神隠しに遭うだろう」という至極単純で、少々頭の悪い推論によるものである。
江戸川少年は風変わりな修験者を覚えていたが、修験者はすっかり忘れていた。元来彼は人の名や顔を覚えるのが不得手なのだ。山の狐や狸、熊のゴンやトンビの風来坊などのことはよく覚えているのだが。人が阿修羅の様に三面六臂だったり、頭に顔が12個付いている様であれば彼にも覚えやすかっただろう。皆判で押したように目と耳が2つで口が一つ、鼻が顔の真ん中に付いていて見分けにくい。偶には額に鼻がついているとか、魚の様に目が頭の両側に離れてついていれば彼にも覚えやすかった。
修験者は真言呪をよく唱えた。お経より祝詞より遥かに短いからである。そして……お経は正しくても間違っても(彼には)判らないが、真言は間違えると力が湧かないのである。正しく唱えれば正しく力を授かる事ができるから、正しい真言を覚えやすかったのだ。つまり……彼は修行により験力を授かったのではなく、最初から験力を持って生まれた。ただその力の引き出し方を覚えただけに過ぎない。
随時追記するかもだが、未来の自分よ……主人公は江戸川や瑠璃だから余り修験者ネタを組み込まない様にしような!(面白そうだけど、これ穴部瑠璃の話なんで)