
創作ノート 山鯨
煎じ薬となる野草を採取してから辺りを見渡すと、山芋の葉が見えた。これぞ神仏のお導き(というか、怪異だ。初夏に山芋は……無論修験者は気にしていない。彼には良くある事なのだ)と喜び勇んで丁寧に掘り進めると、1尺ほど掘り進めた所で山鯨……猪が現れた。存外に鼻が良い猪が季節外れの山芋の匂いを嗅ぎつけたのだ。そして猪は知っていた。山にいるニンゲンは弱い。あんな弱いイキモノに山芋をくれてやる必要は無い。いや、俺のナワバリで何をしているのかニンゲン! 猪は猪らしい短慮により数瞬で勝手に怒り狂った。
修験者は呆れている。何がナワバリだ。どちらかと言うとここは産土様のナワバリで、お前は神々に生かされてるだけだろう。ちゃんとこちらは許可取ってるぞ。ワシが見つけた山芋をガメようとは何たるゴンタか。
山の生き物は目で語る。そのやり方を修験者は山に住むが故に理解していた。ここで本気で殺すぞ!という気持ちを出せば猪は逃げただろうが「このゴンタが」という気持ちは猪に侮りと取られた。侮蔑を感じつつ、猪は斜面を駆けた。なぁにニンゲンなど体当たりしたら逃げ出すか動かなくなる。思い知らせてやれば良い……しかし修験者は人の形を持った「何か」だ。ニンゲンかと問われるとちょっと怪しい。そんな彼は山の獣相手でも逃げ出さない。襲い来る猪の突き上げをむんずと片手で制して動きを止める。彼の身体は微動だにしない。
猪がその尋常ならざる気配を察した時にはもう遅い。ふっと首筋の重さが消え去ったその瞬間に修験者の声が響いた。
「神武不殺、活殺自在!」
猪の左脇腹に謎の圧迫感が生まれる。余りの激痛に脳が痛みを伝える事を拒んだのだ。ピキりという音だけが骨を伝わる。そして右脇腹に更なる衝撃が。堪らずピギィと鳴き斜面をのたうった。修験者の鈎突きが猪の左右の肋に打ち込まれたのだ。比較的大きなオスの猪は修験者の腕の中でお手玉の様に身体を踊らされたのであった。

その衝撃は素手でありながら巨大な梵鐘(寺などにある釣鐘)を叩く撞木の衝撃の数倍。人間相手では許されぬ衝撃だ。
野生動物というものは、総じてしぶとい。人間が殴り付け、蹴り飛ばした程度では痛痒を感じない。熟達の空手家でも人間である限りはその程度だ。しかし修験者は修験者という生き物であり、山の獣の様な、山の怪異が如き存在だ。
猪は見誤っていた。少なくとも修験者が住む根子岳の獣であれば彼を襲う愚は犯さない。半殺しで済めば御の字、修験者は死なないギリギリまで痛めつけてくる。決して殺してはくれない。ゴンタと名付けられた月の輪熊(三種の浄肉奪取の罪により山中を三日三晩修験者に追われた)など骨の髄まで思い知らされている。猪の不運は彼のナワバリに修験者や天狗がおらず、自分が強者であると誤解した点にある。彼は天狗でも無いのに天狗になってしまったのだ!
通常であれば、その様な衝撃に耐える様人間の拳は出来ていない。その様な衝撃を受ければ忽ち拳が潰れる。それを可能にする技が遠く釈尊の地から唐を経由して修験者に伝えられていた。その技を易筋経という。嵩山少林寺で達磨大師が貧相な体格の禅僧達に修行に耐え得る身体を持たせる為に始めたと伝えられている(結果、禅寺嵩山少林寺は武僧だらけになった)教えたのはいつもの鞍馬の大天狗だ。彼に言わせると達磨は「嵩山の印度天狗」である。
ちょっとやり過ぎたか……気絶した猪を見下ろしちょっとだけ修験者は罪悪感を感じている。ぶん投げるぐらいでやめておくべきだったかもしれない。獣はしぶといからと力を入れ過ぎた。掘り出した山芋を少し割って口元に置いてやる。痛む身体をこれで癒せ。なぁに天眼通に依ればお前はまだ死なない。御仏の慈悲に感謝するんだぞと爽やかな笑顔を見せながら修験者はその場を後にした。
無論御仏は「殺さなければ良い」などと伝えていない。
薬にされなかっただけ、この猪は運が良い。(山間部では薬食いといい山鯨が良く鍋にされてしまいがちであるのだ)
いいなと思ったら応援しよう!
